"教室から、生徒が8人出て行きました。そのあと、12人の生徒が教室に入りました。教室には何人の生徒が残っているでしょう?"
兵庫県の小学校で、表題のような問題を生徒に出題し、どのような反応があるかを観察する試みがあった。
(出典:独学のすすめ 加藤秀俊著)
読者諸兄は、表題の問題を解くことができるだろうか?
この問題を出された生徒、あるいはそれを見た父母は当惑し、学校へ「解けない問題を出して生徒を混乱させないでくれ」と言った人もいた。
極めて普通の反応であり、それ自体は何ら責められるものではない。
しかし、そのような父母の反応にもかかわらず、これは大変面白い問題である。
まず分かることは、「算数の問題としては解けない」ということだ。もちろん「学校」におけるテストであるから、生徒は当然、暗黙の「学校のテストにおけるルール」を意識して、すなわち、数学的に、あるいは算数として解こうとする。
しかし、それは無理である。「生徒の人数の初期値」が判明していない限り、算数の問題としては不十分で解けない。
そこで、機知に富んだ生徒は、違う側面から問題をとこうとする。例えば、
- 教室に8人とか、12人とかが出入りするような時間だから、早朝や放課後ではないはずだ
- 一気に多人数が移動しているので、休み時間、しかもトイレ休憩のような時間帯だ
- 12人というのは、休み時間が終わって戻ってきた人たちだろう。回答は一クラスの人数である30名程度ではないか。
上のような解答をすることも、ひとつの解き方である。このように、自分で推論を進める、あるいは過程を付加することにより「問題を解く」ことができるようになる。
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「学校」と「企業」は異なるという。
実は、このちがいの根本的な部分はこのような話が根幹にあるのではないか。すなわち、企業においての「問題」はルールが曖昧で、すべての条件が与えられているわけではない。むしろ、不明な条件が多く、自分で条件を付加し、仮定を置いて問題を完成させてから、それを解く必要がある。
それに対して学校で出される問題は「あるルールがあり、そのワクの中でいかに短時間で、正確に問題を解くか」を試される。勝手に条件を付加してはいけない。
現在、知識労働者の労働時間が問題になっている。
この問題に対する労働者の反発の本質は「成果」が定義されにくいことにある。
会社の現場にいる人は、「成果」が如何に曖昧か、変化しやすいか、そしてコントロール不能かを感じているはずだ。
会社の業務が学校のテストのようなものであれば、「成果で評価」もいいだろう。
しかし、会社の業務、とくに知識労働者は「成果を定義」することからはじめ、自身で「問題を定義」し、そこから「成果測定の指標」を定め、「行動」し、行動の結果からフィードバックをもらい、改善する。
そして、その場合において「問題解決」よりも「問題創造」ははるかに時間がかかる。だから、「成果」を自分で決定することのできない労働者は、「成果で評価」には同意しない。
そして、行き過ぎた労働の長時間化は、企業を弱体化させる。
仮に「成果で評価」を導入するのであれば、労働者自身に成果を決定できる権限を与えなければ、反発を招くだけで終わるだろう。
(2013年9月23日 Books&Apps に加筆・修正)