どうも、ドイツに外国人として暮らすwasabi( @wasabi_nomadik)です。
Photo By Genki Takata(@Genki119)
突然ですが皆さんはポリティカル・コレクトネスという言葉を聞いたことがありますか?
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現、およびその概念を指す (Wikipedia)。
要するにポリティカル・コレクトネス(略称:PC)とは「差別的な表現をなくそう」とする概念のことなんです。日本語にすると「政治的正しさ」みたいな訳になってしまいますが、これは例えば「自民党が正しくあるためにはこうあるべき」とかそういう正しさのみを指すものではないです。
日本でも移民や在日外国人に対する憎悪や軽蔑の念を込めて発言する「ヘイトスピーチ」が問題になっています。
この記事内で投票形式で議論されている通り、ヘイトスピーチはPC的観点から規制されるべきなのか、はたまた「表現の自由」として保障されるべきなのかという視点で問題が議論されています。
日本では法規制が採決見送りになってしまったそうですが、アメリカ、カナダ、他欧州各国ではヘイトスピーチは法律によって厳しく罰せられる対象となっています。ドイツもヘイトスピーチにはかなり厳しい処罰が適用されます。
ドイツは、ヘイトスピーチを世界で最も厳しく取り締まる国の一つだ。ヘイトスピーチは、刑法第130条の「民族扇動罪(Volksverhetzung)」に該当し、裁判所は最低3ヶ月、最高5ヶ月の禁固刑を科すことができる。(ハフィントンポスト:熊谷徹氏)
というわけで、他民族が共存するドイツやその他欧米では「ヘイトスピーチが表現の自由か?」と議論することはもはや論外な訳ですが、もっと広義のポリティカル・コレクトネスという概念については戸惑いを覚える人もいるそうです。ポリティカル・コレクトネスとヘイトスピーチの違いは、後者が攻撃的な発言のみを指すのに対して、ポリティカル・コレクトネスを持ち出すと、「何気に発言してしまった差別的なこと」まで含まれます。
良い例として、またまたアメリカのコメディ・アニメ、サウス・パークがこれについて面白いエピソードを作ってくれました。
シーズン19のエピソード「Stunning and Brave」のテーマは、自身の出演したリアリティ番組をきっかけに性同一性障害だったことを告白し、女性に性転換をしたことが話題となった、元アメフト選手ケイトリン・ジェンナー。アメリカでは彼女のことを“Stunning and Brave”(魅力的で、勇敢だ)と評価するのがポリティカル・コレクトネス(PC)の観点から一般的だそうです。というのも彼女のことを悪く言うのは「ダサイ」ことで、許されるべきではないという空気感があるそう。
しかしエピソード内で、主人公の一人であるカイルが、「個人的に彼をそんなにすごいと思わない。」と悪気がなくて言ってしまった途端、PCを押し付ける校長やその他PCフラタニティ(サークルみたいな団体)に責められまくり、PCがやっかいなものになっていく・・・という展開で話は進んで行きます。さすが時事ネタや議論を呼ぶテーマを扱うサウス・パーク。PCは大事だけど、固執しすぎるがあまり、社会が窮屈になっていないか?という風刺をしたエピソードでした。
と、そこで気になったのは日本語の「平等」という概念。これは欧米からやってきたポリティカル・コレクトネスの概念と相容れるものなのでしょうか?そんなことを考えていると面白いYoutubeのビデオに出会いました。これは、日本語の「差別」と「平等」の概念の根底を検証した話です。
お時間のある人は是非ビデオの最初から最後まで見て欲しいところですが、簡単にまとめると日本語の「平等」と「差別」は仏教語から翻訳された翻訳語なんだそうです。
今でこそ日本では「男女平等、差別反対」などという使われ方をする、差別という言葉。これはもともと「しゃべつ」と発音されていて、男女差別等の差別に限らず「ものを区別する」という意味だったそうです。例えば、目の前に机がそこにあればそれを「机」という名前で区別して、自分と机の違いを認識しますよね。仏教語ではこれも「差別」ということになります。
でも、「平等」というのは言って見れば「一切の差別を捨てる」、様子するに全ての区別をなくすということなんだそうです。男と女の違い、日本人とドイツ人の違い、どころの話ではなくて究極には、ゴキブリも、机も、私も、ゲイもレズも、欧米人もアジア人も世の中にあるものみ〜〜〜んな一緒、という哲学が「平等」という言葉の裏には隠れていたんです。
これってスゴイことですよね。完全に「無」の境地です。
アメリカ発のポリティカル・コレクトネスは人間には適用されていますが、まだゴキブリや机にまでは適用されていません。「机って呼ぶな、机も人間と同じなんだ!」と叫ぶ人がいたらコイツは大丈夫か?と思われるのがオチです。
もちろん、動物愛護などの意識は欧米では高まっていますが、机同様、動物と人間の違いを区別(差別)するからこそ「愛護しなければ」という意識が生まれるのは否定できません。
これって、人種にも当てはまると思うのです。私はもちろん人種差別は大反対ですし、自分がされたらとても悲しいですが、同時に「人種差別反対」と言いながら「日本人とドイツ人は一緒だ」と言われたら素直に納得できないですし、その違いを楽しんでいる節もあります。
違いを認める、と言えば響きは良いのかもしれませんが仏教から派生した平等の概念で言えば、「違いを認識する、ことすらも捨て去る」わけですからその境地は完全に無です。もはやポリティカル・コレクトネスという概念さえ「平等」の前には存在しません。
それでも、やっぱりポリティカル・コレクトネスという概念は現代において非常に重要な役割を持っていると私は思っています。なぜなら世の中は仏教の「平等」が実現するような「何にも軸を置いていない状態」に耐えられないからです。多くの人にとって、最強のカオス状態である「無」は非常に恐ろしいものです。秩序を保たなければいけない世の中において、そしてルールが存在している世の中においてはPCのような概念をもって、徐々に無(平等)に近づいて行くことが大切なんじゃないかと思います。
そんなこんなで「平等」の境地、考えると頭がグルグルしてきますがいつか辿り着いてみたいです。
(2015年10月16日「WSBI」より転載)