「細胞生物学の歴史を愚弄している」というコメントについて

皆様ご存知と思いますが、先日発表されたSTAP細胞凄いですね。最近ようやくiPS細胞を覚えたと思ったらいきなりコレですから、「そんなんありなん!?」と私も開いた口が塞がりませんでした。小保方博士の信念と熱意が掴んだ大成果です。さて、そんな久々の明るいニュースではあったのですが、関連ニュース記事等を読んでいてどうにもモヤモヤっとするところがありまして。

皆様ご存知と思いますが、先日発表されたSTAP細胞凄いですね。

最近ようやくiPS細胞を覚えたと思ったらいきなりコレですから、「そんなんありなん!?」と私も開いた口が塞がりませんでした。

小保方博士の信念と熱意が掴んだ大成果です。

さて、そんな久々の明るいニュースではあったのですが、関連ニュース記事等を読んでいてどうにもモヤモヤっとするところがありまして。

昨年春、世界的に権威ある英科学誌ネイチャーに投稿した際は、「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄していると酷評され、掲載を却下された」

「間違い」と言われ泣いた 新型万能細胞を開発した30歳女性研究者 - MSN産経ニュース

表題でお察しの通り、有名なこのエピソードの部分です。

この掲載却下の窮地を乗り越えて今回ついに論文を通した小保方博士の執念と底力を感じさせるエピソードで、博士のその頑張りについてはもちろん称賛以外の言葉がありません。

しかし、そんないい話の中で私がどうしても気になってしまうのは「細胞生物学の歴史を愚弄している」とした酷評のコメントです。

個人的には決して適切なコメントではないと思いますし、そしてあえてきつく言えばこのコメントの方こそ「科学の歴史を愚弄している」ものだと思うのです。

 ◆

Natureのような有名科学雑誌はもちろん、論文を投稿する対象となる多くの雑誌では投稿すれば何でもかんでも載るわけではなく、厳しい審査をくぐり抜けなくてはなりません。

例えば今回のNature誌の場合では、まず編集部の方々が送られてきた論文に目を通しふるいにかけるそうです。

就活でいう書類選考にあたるいわば第一関門ですが、この編集の方々もただものではなく科学に精通した非常に優秀な方々で、そのチェックは非常に厳しいことで知られています。

掲載するかどうか検討してみてもいいなと編集者が判断すれば(第一関門を通過すれば)、編集者はその分野における他の専門家に論文のチェック(査読)を依頼します。

この審査の仕組みはピアレビューと呼ばれ多くの雑誌で採用されている方式で、要するに論文の優劣を審査するにあたり、餅は餅屋ということで他の同業者にレフェリーとなってもらい吟味してもらうのがいいだろう、という考えに基いています。

しがらみなく公正に審査できるように、多くの雑誌では誰が自分の論文を査読しているのか秘密にする「匿名制」になっているのも特徴です。

レフェリーとなった方々は論文を読んで「いい論文だ。載せるべき」「ちょっと直せば大丈夫」「大分直せば何とかいけるかな」「こらあかん」などと評価しつつ修正すべき点・問題点を指摘します。その指摘に基いて投稿者は修正したり諦めたりするわけです。

そして、最後に修正の結果やレフェリーの判断を参考に編集者がOKを出せば、ようやく論文が掲載され世界に公開されることになります。

 ◆

さて、今回の件で問題の「愚弄」コメントがどこで出たかと言えば、どうやらレフェリーのコメントのようです。

レフェリーの評価や指摘は一般に非常に厳しいものになることが知られており、正直その流れの中では出てきても珍しくない批判の言葉かもしれません。

でも、やっぱり言っちゃダメな言葉だと思うんですよ。

これは何も、結果的にSTAP細胞という世紀の大発見となる投稿を却下したからだとか、小保方博士が傷ついてかわいそうだから、などという理由で言っているわけではありません。

しょっぼい研究であろうが、打たれ強い投稿者であろうが、関係ないんです。

例えば無理数を受け入れられなかったピタゴラスや、アーベルの五次方程式に関する論文を無視したガウスや、量子論に懐疑的だったアインシュタインなど、歴史に名を残す優秀な科学者達でさえ全ての新しい科学的成果を間違いなく拾い上げることは難しいのです。

毎日無数の論文が送られてくる環境にある科学誌編集者達に完璧な拾い上げを求めるのは無理な話と言うものでしょう。

また、どんなに意義深い大発見であっても、論文そのものの厳密さや独創性、明確さなどを担保するために出来る限り厳しい審査をするのが査読者たちの務めです。

博士の最初の論文に不備があったとすればきっちり却下するのが科学論文誌として当然の態度と言えます。

ですから、STAP細胞の論文を却下したことを今になってバカするのは結果論でしかありません。

そうではなく、ただ私は「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄している」というコメントがまさしく「科学的でないコメント」だから許せないのです。

査読者だって人間です。多忙な中でお金にもならない査読の作業をしていて、それがどうも気に入らない論文だったとしたら、ついつい苦言を呈したくなるのも分かります。

匿名・非公開のやり取りであること、審査する側という優越感・自尊心から自ずと気も大きくなってしまうかもしれません。

でも、査読はやっぱり科学の場なのです。

厳しい批判をするにしても科学的な言葉で行うべきでしょう。

常識に囚われず主観を排し、厳密さと客観性を追い求め、そして時々歴史をひっくり返しながら進歩してきたのが科学です。

その科学を科学たらしめている現代における最高峰の審査の場で「歴史を愚弄している」などという感情的な言葉で応答することは、科学に対する敬意や謙虚さを見失った、それこそ科学の歴史を愚弄した態度ではないでしょうか。

実際、主観的・感情的なコメントは科学の厳密さ・客観性・公正さに対する信頼や理解を損なう恐れもあります。

昔、記事にも書いたように、それは「ニセ科学」が蔓延する隙を作ることにもなりかねません。

科学的議論の場においてはイラッとしてもムカついても冷静に科学的態度を通すのが科学者の矜持というものではないでしょうか。

私は一人の科学教徒として、Natureの査読者というおそらく高いレベルの科学者の口からそのような言葉が出たことを、(事実であれば)ただただ残念に思います。

P.S.

以上、愚痴でした!

なお、この査読システムにも色々と課題があるようで、今後また変わってくるかもです。

(2014年2月4日「雪見、月見、花見。」より転載)

注目記事