地方自治のジレンマ

なぜ残念ながら統一地方選は「投票に行かなきゃ」と思えるものでないのでしょうか。

今日は統一地方選(後半戦)ですね。

今回は私の知人も何名か出馬していて、個人的にちょっと気になる選挙です。

ただ、統一地方選の前半戦の投票率は戦後最低と、あまり芳しくなかったようで、今日の投票率も期待は出来ないかもしれません。

じゃあといって、「みんな投票に行こう!」と呼びかけることは簡単です。

でも、まずは「なんでみんなが投票に行かないのか」を考えないと抜本的な解決にはならないと私は思うんですよね。

そもそも投票というのは「行こうと言われたから一応行っとこうか」というノリよりは、自分の意思で「投票に行かなきゃ」と思えるものでないといけないですから。

さて、では、なぜ残念ながら統一地方選は「投票に行かなきゃ」と思えるものでないのでしょうか。

もちろん国政選挙でも決して投票率は高くないというのもあり、政治全般に期待度が低いというのもあるでしょうけれど、今回は地方選というところに絞って考えてみたいと思います。

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私が考える一つの理由は、「地方から地方への移住が自由だから」です。

いわゆる居住移動の自由というもので、日本国憲法でも保障されている権利です。

引越を全然したことがないという人はあまり多くはないのではないでしょうか。

引越が自由だと何が起こるかと言うと、「自分の居住地特有の不満があった場合、引っ越せばいい」という発想が起きやすくなります。

例えば、住んでる地域の治安が悪いだとか、保育所が足りないだとか、様々な居住地の不満があった場合、治安が良い地域・保育所が充実してる地域に引っ越せばいいわけです。

実際に私の友人にも、保育所を求めて、職場はそのままで、引越しをした人がいます。首都圏など大都市圏は交通網が発達しているので、職場を変えなくても大きな移動がけっこう可能なんですよね。

つまり、居住地特有の不満があっても、引越しちゃえばいいという簡単な解決策があるので、地方政治に働きかけて解決しようというインセンティブが働かないのです。

また、今のは自ら居住地を変更する方々のお話でしたが、そうでないパターンの方々もいます。

それは、転勤等、お仕事の関係で地方を点々とする流浪の民の方々です。

全国的に支社を持つような企業も少なくないですから、ある日の人事で突然、行ったこともないような遠くの地方に転勤を命じられるということがありますよね。数年で戻すよみたいな約束で。

さて、こうやって仕事の関係で引越をすると、どうなるかと言うと、引越し先の地域に対して「自分は一時的にここに住むだけなんだ」という態度となってしまい、その地域の一員としての気持ちが高まりません。

実際、政治というのはフットワークが軽いものではないですから、今ある不満が解決していくとしても、年単位のスパンで考えないといけなかったりします。

そんな先に解決されたって、流浪の民の自分はもう元の本社に戻っていたり別の支社に行ってるかもしれない、そう思えてしまうと、なかなか地方政治に参加しようというインセンティブが働かないですよね。

さらに、この「転勤するかもしれない」という可能性の存在は、実際に転勤しないとしても地方自治に対してのインセンティブを下げる効果があります。

例えば、自分の住んでいる地域の保育所が充実していなければ、地方政治に働きかけて保育環境を充実してもらおうとするのが、普通想定される地方自治の流れです。

ただ、先程も言った通り、政治というのは時間がかかるものですから、わりと早めに働きかけないといけません。具体的に言えば、まだ自分は結婚も出産もしてないけれど、将来結婚・出産するかもしれないから、早めに今の居住地の保育環境を良くしておかないと、とならないといけません。

しかし、ここに「転勤するかもしれない」という可能性があればどうでしょう。

結婚・出産前から早めに考えて居住地の保育環境を充実させるよう地方政治に働きかけていたけれど、ようやく充実してきたと思った矢先自分は転勤させられた、となると何だか馬鹿馬鹿しいなという気持ちになりかねません。

そんなんだったら、結婚・出産する段になってから、保育環境の充実してる地域に住みかえを考えるのが手っ取り早い方法です(結婚するとなれば、それだけで大体の場合引越しを伴いますし)。

自分がずっとここに住み続けるという確証がないと、どうしても地方政治に対する気持ちは薄れていってしまうのです。

ですから、思い立ったら引越が出来るような身軽な立場の人や、転勤などで引っ越す可能性がある人は、地域の長期的なヴィジョンを共有できないので、地方政治に前向きな気持ちが持ちにくい構造的な問題があるように思います。

逆に言えば、地方政治に前向きな気持ちを持てる人というのは、マイホーム建てちゃってもう引っ越すことはないような人とか先祖代々ここに住み続けて自営業やってるんだという地域土着の人だとか、引っ越す可能性の低いそういう方々になります。

そして、それは実のところ、引っ越す可能性が高い人が若者で、引っ越す可能性が低い人が中高年という構図が容易に想像されます。

結果、流浪の民な若者たちの地方自治での代弁者が生じないこととなります。

さらに言えば、地方自治での代弁者が不在であるからこそ、なおさら地方自治への期待をすることがなくなり、より「いざとなれば引っ越せばいいや」と流浪する気持ちを強める悪循環が生じかねません。

 ◆

国政も選挙区という地方ごとでの投票ではありますが、引越しをしたとしても日本から完全に出る人は稀ですから、一応将来自分がその利益を享受しうる可能性があります。

しかし、地方政治では、その地域から引越してしまえば、何の収穫も得られません。そして、そのような転居というものは現代では稀ではありません。

現実には、このような流浪の民の方々が地域地域に一定の割合で住んでいるはずです。でも、彼らが地方政治に参加する意欲が高まりませんし、またそのような流浪の民の代弁者も地方政治には立ちません(立っても当選しないでしょう)。

しかし、良い地方政治をしようとするならば、彼らも住民である以上、本来はこのような流浪の民の方々の状況も勘案した政策が求められます。

また、流浪の民が居るということは、今後自分の地域に引っ越してくる潜在的な住民候補が全国的にたくさん居るということでもあります。ですから、流浪の民の彼らのことも考えなければ、彼らが自分の自治体を選んでくれなくなるのです。

流浪の民に選ばれない結果、誰も入って来ず、むしろ他の地域に住民がどんどん出て行くような自治体があるとすれば、どうでしょう。

これがいわゆる「過疎地域」で、現在日本の各地で問題になっている状況と思います。

このような状況を打破するためには、流浪の民の方々に自分の地域を選んでもらい、かつ、定着してもらわないとなりません。

しかし、残っているのはより地域土着的な住民たちばかり、地方政治に参加してるのもそのような地域土着的な方々ばかりです。にもかかわらず、地域土着的な方々ばかりを向いた政治でなく、代弁者が誰も立っていない外部の流浪の民の立場を考える政治でなくてはならないのです。

これは国政で言えば、日本以外の諸外国にむけて移民を誘致するようなもので、考えが保守的になればなるほど難しいのは想像に難くないでしょう。なのに、実際に日本に残っているのは日本に対するコダワリの強い方々ばかりという状況。非常に厳しい状況と言えます。

まとめます。

人が自由にコミュニティを出入りするという条件下では、その地域のことだけでない広い視野が必要となるはずなのですが、自治権が内部の者にしかないために視野が狭くなりやすい。視野が狭くなると、外部から人が入ってこなくなり、より視野が狭くなりやすくなるという悪循環が生まれる。

これが私の考える、居住地の移住の自由がもたらす、地方自治のジレンマです。

みんなが地方選の投票に行かなきゃと思えるようになるためには、全国各地が自由に地域を移動する流浪の民のことも考えた視点で政治を行い、この地方自治のジレンマを打破することが必要じゃないかなと感じます。

ジレンマというぐらいですから、とても難しいことではありますけれど・・・。

P.S.

4月前半が忙しくて更新途絶えておりました。すみません。

出来る限り、ここからリカバリーしたいなと思っています(;・∀・)

(2015年4月26日「雪見、月見、花見。」より転載)

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