よく言われるイメージとして、欧米の人は「個人主義」で、日本人は「集団主義」というものがあります。
例えば、欧米は言いたいことを言いあう「黙ってないで自分の利益を主張し切ったもん勝ち」の世界、日本は「和をもって尊しとなす」ということで周りの空気を読んで「自分の利益を忍んで行動するのが美徳」の世界、などと対照されます。
確かに「空気を読め」という圧力はとても強いこの日本。
私も長らく「欧米の個人主義」vs「日本の集団主義」というイメージを抱いて生きていました。
でも、最近ボーっと考えていて思ったんです。
案外日本人って「個人主義」かもって。
今日はそんなお話です。
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皆様御存知の通り、ブラック企業やら何やらと、慢性的に残業する風習で有名な日本人ですが、これってよくよく考えてみると、個人主義的行動だと思うんです。
まず1回ちょっと今の日本社会を忘れて、頭の中をニュートラルにして考えてみましょう。
「働く時間は8時間まで」って書いてある中、仕事が残っているけど8時間がやってきたらどうします?
要は時間制限のある作業で時間切れが来たらどうするって話なのですけど。
延長しますか?
いや、少なくともその選択肢から検討しちゃいけないですよね。
延長は基本的にはルールの意図に反しますから。
先にルールに沿った解決策を考えるのが筋でしょう。
だからルールに沿った「交代する」という発想がまず出るのが自然なはずです。
「混んでるのでお席は2時間までで」って書いてあるお店で、2時間終わった状態で「じゃ延長で」って言う人はいないですよね。
2時間までって言ってるんだから、それは2時間までなはずです。
それと同じで時間が来て仕事が終わってなかったら、まずは「交代」を考えるはずなんです。
でも日本人は「延長」が好きです。
曰く、「自分しかこの案件が分からないから俺がやるしかない」
曰く、「他の人に仕事を回すのは迷惑な気がするから自分でやりとげる」
だから「延長」するんだ、と。
ええ。
「自分がやらないと誰も解決できない」
「自分がやらないと周りが困る」
見方によっては確かに仲間思いの考え方にも見えなくはありません。
でも、これって――単にチームワークがなってないだけなのでは?
「延長の理由」は要するに「自分でやる」「自分でやる」って繰り返し。
それって、一人一人がただ「自分の仕事だけ」をしている――自分のことだけ考えてる――という事実の裏返しじゃないでしょうか?
スムーズに「交代」できるように、なぜ普段から情報を共有しないのでしょう。
気兼ねなく「交代」できるように、なぜ普段から引き継ぎの風土を作らないのでしょう。
誰かが急に休むことになっても業務に支障が無いように、なぜなってないのでしょう。
それぞれがそれぞれの仕事を抱え込むのが「和」なんでしょうか?
違いませんか?
互いに互いの仕事を助けあうのが「和」ではないでしょうか?
他の人に迷惑がかかるからとか、自分にしかできない仕事だからとか・・・要は協力する気が無い、交代したくないだけなんじゃないでしょうか。
下手すると、情報を共有しないことで自分が「代わりの居ない、会社にとってかけがえの無い人材」として重要な位置を占めることを狙ってそうなきらいもあります。
それってとっても「個人主義的」に私には思えます。
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あと、もうひとつ「個人主義」っぽいなと感じるのが、何か結果が悪かった時に「努力が足りない」という結論に偏りがちな空気です。
「業績が落ちてるぞー、みんな頑張るように」
ええ、もちろん個人の努力不足に起因する失敗ってのはいっぱいあると思うんです。
でも、上に立つ立場の人が――せっかく俯瞰できる地位にいる人が、原因を「個人の努力のせい」にしたり、解決策を「個人の努力の増し増し」としてみたりって、何なんでしょう。
100の成果が欲しい時に「10+10=20」じゃ困るから、個人の能力の10を努力で50にして「50+50=100」にしろって、そりゃ意味は分かります。
でも、ほんとは数字じゃなくて「+」の記号のところを「×」にして「10×10=100」って結果を出すのがチームを束ねる人の役目でしょう?
みんなの能力を単純に足し合わせるんじゃなくって、有機的なチームワークから相乗効果を生み、加算をはるかに凌駕する乗算や指数関数的な成果を導くのが「チーム(集団)」となる醍醐味のはずです。
「みんな一丸となって頑張るぞ!」
って、ただ横に並んでどうするんですか。
ただ集まるだけで、情報も共有しないし、交代もしない、ただそれぞれが突っ立ってて、各々のことを勝手に「努力」する。
それってとっても「個人主義的」に私には思えます。
「チーム」ってのは、「和」ってのは、やっぱり「手を繋ぐこと」なんじゃないでしょうか。
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「人に迷惑をかけないよう自分でやる」
一見すると「集団」を尊重している「集団主義」のように聞こえます。
でもそれは裏を返せば「助け合わない社会」「それぞれがそれぞれのことを解決しないといけない社会」であって、その意味ではとても「個人主義」になりえます。
きっと、結局のところ「個人主義」も「集団主義」も表裏一体なのですよ。
解釈次第でいくらでも移りゆくもので、多分人は見たいように見てしまうのです。
「まずは家族の絆で助け会おう」「地域で支え合おう」と一見「集団主義」の長所に基いているような、生活保護などの社会保障の縮小政策も、私にはただ「個人主義的」な「結局は助け合いたくない」という短所を伸ばしてるだけに思えてなりません。
これもまた偏見なのかもしれませんけれど。
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P.S.
日本人は「和」とか「絆」とか言っておきながら、結局支えあったり助けあう気がないんじゃないのかなーって、ちょっと思ってしまったので。
欧米の人のことは分からないので、欧米の人が案外「集団主義」っぽいかどうかはとりあえず別のお話として。
(2014年1月20日「雪見、月見、花見。」より転載)