二場所連続休場している稀勢の里の姿に心が痛む。
一度だけしか優勝してないにも関わらず、優勝した場所で千秋楽を迎える前に「横綱昇進に相当」と審判部がコメントを出すなど、異例尽くしの横綱昇進劇だった。
「久しぶりに日本出身横綱がみたい」というファンの声に応えたものだという説明が一番腑に落ちるが、この優遇措置こそが稀勢の里に無理をさせ、相撲の国際的地位を著しく低下させ、結果、誰一人として得しなかったのではないか。
「日本人だから横綱になれた」と言われたくないからだろうか、稀勢の里は3月場所にけがをしても出場し続け、優勝はしたものの、後遺症が残り、その後二場所連続休場。
最初にけがした時に休場することができていたら、今ごろは全盛期の姿を見ることができたかもしれないと思うと、本当にやるせない。先日のブログで、稀勢の里の引退の可能性を危惧したが、その現実味が増してきた。
「国技だからこそ日本出身横綱がみたい」ではなく、「国技だからこそ相撲を世界に広めよう」という発想転換ができないだろうか。
外国出身の幕内力士は2011年に19人と過去最高となり、それ以降、減り続け現在13人。「日本人だから」と昇進を優遇すれば、今後、さらに外国人力士が減っていき、相撲の国際競争力が落ちていくのではないか。
私はこれまで8カ国17年間海外で生活し、様々なスポーツを体験してきたが、相撲ほど世界に広まりやすいスポーツはないと思う。
野球やサッカーなどの球技とは違い、高価な道具は不要だ。柔道や空手の様な複雑なルールもない。丸を描くことができる平らな地面と、人間が2人以上いれば、いつでもどこでもすることができる。
そして、一番重要な点は、相撲は強くなれば、年間数千万円を稼ぐ「プロ」になる道がしっかり確立されていることだ。無名の十両力士でも月収は100万円といわれ、100メートルをいくら速く走れたとしても、これだけ稼ぐのはかなり難しい。
私がアフリカの難民キャンプの国連事務所で勤務していた時、宙ぶらりん状態になっている若者たちが自分たちの才能を披露する「若者フェスティバル」を開催した。
そこで、「相撲大会をやってみたらどうか?」と提案したら、「おもしろそう!」とすぐに受け入れられた。
キャンプでは、周辺諸国から逃れた難民約30万人が暮らし、出身国ごとに大きな体格の人が選抜され、1000人以上の観客が集まり大盛況だった。ちなみに、私は日本代表として出場し、準決勝まで進んだ。
フェスティバル後、キャンプ内では子どもたちが相撲をして楽しむ姿が見られた。
チャンピオンになったケニア人に「日本で横綱になればミリオネア(億万長者)になれるよ」と言うと、「本当に!」と目を輝かせた。キャンプ内の援助機関で働く難民の平均月収が7000円なのだから、無理もない。
日本の援助団体は世界各地の貧困地域で活躍しているが、相撲を教える取り組みは聞いたことがない。
ジャイカの青年海外協力隊事業で、スポーツの技能を途上国の若者に伝授するため、これまで2000人以上が派遣されてきたが、柔道、野球、バレーボールなどが主流で、相撲を教えに行ったのはたったの一人だ。
想像してほしい。
元関取のAさんが、アフリカのB国へ行って、相撲を教え、現地で暮らす16歳のCさんを有能な力士に育て上げ、幕内力士となる。貧困にあえいでいた、Cさんの家族はたちまち裕福になり、「目指せKokugikan!」と相撲がブームとなる。
そうすれば、B国と日本の友好関係は何十年先まで盤石になり、相撲が日本のソフトパワーを高めてくれるだろう。しかし、今回の稀勢の里の件は、それに逆行するものだ。
メジャーリーグは全体の3割が外国人プレーヤーだが、誰も「野球は米国の国技だからアメリカ人をエースにしろ!」とは言わない。
そんなことになったら、メジャーリーガーを目指す日本の高校球児たちは幻滅するだろう。
どうすれば、「Sumo」を国際公用語にできるのか。外国人力士がいることが当たり前になった今こそ、彼らを巻き込んで真剣に議論するときにきている。