一方通行の「国際理解教育」はかえって相互理解の妨げになりかねない

国際理解教育は相互理解が大前提であるべきだ。

これまでブログで何度も書いてきたが、私の住む新潟県南魚沼市の人口は5万人と小規模だが、50か国以上の人が暮らす世界有数の国際都市だ。4月5日の新潟日報朝刊では同市の2018年度予算が紹介された。

小学校の英語教育化を見据え、ALT(外国語指導助手)を1人増員。市の特色である英語教育と国際理解教育を拡充する。

「国際理解教育」と聞いて、皆さんは何をイメージするだろうか?外国人の講師から世界情勢や言語を学んだり、違う文化に触れてみたり、そういうイメージではないか。しかし、これらだけでは、とても大事な「国際理解教育」の要素が抜け落ちており、その抜け落ちている部分に行政はもっと力を入れるべきである。

私の1歳の息子が通う子ども園(公設民営)は園児213名中、外国籍児童は何と38人(18パーセント)。ベトナム、シリア、モロッコ、マダガスカル、韓国、カメルーン、カザフスタン、モンゴルなどなど、私が数えられるだけでも10か国以上になる。こんな国際的な環境で子どもを育てられるということは、この地域の大きな魅力であり、彼ら外国籍児童の存在は私たちにとっての宝であるはずだ。彼らの親のほとんどは留学生で日本語ができないが、大学の講義は英語のため、英語は流ちょうに話せる。

しかし、先日の入園式では、すべてが日本語だけで実施され、多くの外国人の親たちは来賓などからの挨拶をただじっつ見つめることしかできなかった。入園児紹介の際も、日本人児童はフルネームで呼ばれるのに、外国籍児童はなぜかファーストネームかニックネームだけで呼ばれた。配布された資料も、日本語と英語のでは5倍以上の差があった。

Yoko Kuroiwa

これが外国人の親に配布された資料。

Yoko Kuroiwa

これが日本人に配布された資料。

日本語のは、園の理念や病児保育の紹介、保育参加の呼びかけ、保護者会の活動報告などがあったが、英語のは、児童数、月間予定、給食のメニューやバスのスケジュールのみ。外国人の親からは「日本語の資料は何が書いてあるの?」とか「今、ステージで話している人は誰?」などと私は質問攻めにされた。

入園式は年に1回の大事なイベントだ。たった1時間の式に、外国人の親だけを一か所に集め、静かな声で英語に同時通訳をするくらい難しいことではないはずだ。資料だって、すべてを翻訳するのは難しいかもしれないが、園の理念など大事な要点だけを英語にするのはそこまで難しいことじゃない。予算がないなら、「国際理解教育」を市の特色に掲げる南魚沼市に予算を付けてもらうようお願いできないだろうか?

国際理解教育は相互理解が大前提であるべきだ。日本の児童が世界を理解するために読んだり、聞いたりする能力と、日本の児童が世界の人たちに自分たちのことを理解してもらえるよう、話したり書いたりする能力、両方が必要である。どちらも同じくらい大事なのに、なぜか、日本では前者ばかりが重要視されている。高校生の英語力を調査した最新の文科省の調査では、読む力と聞く力のポイントが、話す力と書く力より倍高かった

私たち大人が、すでに一緒に暮らしている外国人に、日本の文化や施策について一生懸命発信する姿を見せれば、子どもたちはそれを見て、自然と発信力を養っていくだろう。しかし、今回の入園式の様にやってしまえば、子どもたちは「ここは日本なのだから日本語だけでいいのだな」と国際理解教育の理念と正反対のことを学び取ってしまうかもしれない。大事な式典で、200人中40人の参加者が難聴者だったら、手話の通訳をつけないだろうか?入園式は、国際理解教育が市の特色であることを内外に示す最大のチャンスだったのに、とてももったいないと感じた。

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