ライバル社に特ダネをスクープされた時のことを、マスコミ業界では「特落ち」と言う。新聞記者時代、多くの特落ちをしたが、昨日、私は人生で一番大きな特落ちをした気分になった。私はアフリカの難民キャンプで3年働いた経験を誇りに思ってきたが、今回、その事を初めて恥じることになった。
今回の豪雨災害を受けて、現代ビジネスに弁護士の大前治氏が「自然災害大国の避難が『体育館生活』であることへの大きな違和感」と題して寄稿した。大前氏は、記事で、被災者に体育館で大勢で身を寄せ合って避難生活を強いるのは、国際基準で定められた避難者の権利を侵害しているのではないかと指摘している。
全くその通りだ。アフリカの難民キャンプで3年働いた私にとっては、当たり前のことすぎて、ぐーの音もでない。アフリカでもどこでも、難民たちは各家庭ごとにテントや仮住居が支給されるため、体育館で100人以上で寝泊まりするよりはプライバシーが確保される。でも、だったら、なぜ、今まで、この当然のことについて私が発信することができなかったのか?体育館で被災者が身を寄せ合う光景なんて、これまでの災害で何度も見てきたではないか。
理由は一つしか考えられない。私の中で、発展途上国の難民と、日本の避難者を同列に扱うことに無意識な抵抗があったのではないか。前の記事でも書いたが、日本のマスコミは、国内災害で家を追われた人を「避難者」と記し、海外で災害や紛争で避難した人を「避難民」と使い分けている。英語で表記すれば、どちらも「Displaced Person」で、強制的に移住を強いられる境遇も、そこから出てくる課題もほとんど同じである。
例えば、今回の災害で救援物資の受付を断る自治体が出てきた。不要な物が送られてきたり、保管するところがなかったり、仕分けするスタッフがいなかったりするのが理由だという。
実は、難民支援の現場でも全く同じことが起きている。配給された食料が転売されたり、食料を運搬したり保管したりするコストが膨大にかかったりする。そのため、現在、国連は多くの現場で物資配給から現金配給に切り替えている。現金なら、運搬・保管コストがかからず、仕分けする人件費もかからず、避難している人たちのそれぞれのニーズに対応することができる。そして、何より、別の場所で生産された物資を配給するのと違い、現金配給なら、被災した地域の経済にそのままお金が落ちるため、復興にも役立つ。
私が働いていた国連難民高等弁務官事務所も近年、現金配給に大きく舵を切り、数年前に専門部署を創設した。しかし、その際、現金配給に関して懐疑的な声を上げた主要ドナー国がいた。どの国か皆さん想像できるだろうか?何と、国内の避難者支援では先進国の中で一番経験のある自然災害大国、日本である。「現金配給だと、支援がどういう結果に結びついたのか把握しずらい」というのが理由だという。私はそれ聞いて、パチンコをする生活保護受給者には保護費を支給すべきでないという声が上がるのに似ていると感じた。「現金を渡して、変なことに使われたら、納税者に説明責任が果たせない」ということなのだろう。
しかし、食料を配給しても、それが現地で転売され、現金になってしまえば、結果は同じことだ。私がいた難民キャンプの食料配給所の隣には、支援物資専用の大きな中古品店があり、難民たちは不要な支援物資をそこで現金に換えていた。どんな支援にもリスクはつきものであり、被災者が支援を受ける権利の擁護を優先するのか、支援金の流用を防ぐことを優先するのかの問題である。
これからは避難生活の長期化などが原因となる「災害関連死」が危惧される。世界各地で避難者を支援してきたプロたちが議論の先頭に立ち、避難者の支援を受ける権利が尊重される仕組み作りを考えてほしい。