『日本人は、なぜ議論できないのか』 第2回:「考える」と「思う」

そもそも、「考える」と「思う」という言葉の概念的な存立基盤の相違を強く認識することなく、対立的な「考える」と「思う」を日常、無反省に混濁して使うと言うことに、問題の本質があるのではないか。つまり、言葉を定義しない日本人は、意識することなく、「思う」を前提に「考える」を語るのである。

コメントも落ち着いたようなので、第二回を掲載したい。連載のテーマである『日本人は、なぜ議論できないのか』の主眼は、計量的・統計的にその正誤を証明すべき命題であることにあるのではなく、多くの日本人が認識し、外国人が指摘し、問題視されている現象であることに置いている。

また、このテーマが、解決可能であるかどうかは、連載終了後の各読者の判断に委ねたいと思う。少なくとも、こうすれが解決するというHow To的な論考を展開する心づもりはない。誰にでもできるHow to的解があるのであれば、そもそも、この問題は存在していなかろう。

すでにコメントでも論が展開されているが、なぜ、頭の良い"であろう"学者先生と優秀"な"文部官僚が、そもそも自発的・自律的を前提とする「考える」を「主体的に考える」などという、「馬から落馬」のような重複表現を使ったのであろうか。これを言葉≒概念の定義に対しての感度が低いからであると片付けることは容易である。確かに、単に、ご当人たちの言葉≒概念に対する感度が低いだけかもしれない。事実、審議のまとめの撞着的な論旨展開をみれば、おそらく論理的整合性も含めて、論理と言葉に対する感度が低いだけであろうと推察される。しかし、ここでは、あえて、もう一歩踏み込んで考えて見たい。

そもそも、日本語において、「考える」は日常的な語であろうか。日本の英語教育では、英語の「think」を「思う」ではなく「考える」と訳させるが、日常的には、「思う」という語を使う、または、想起するのではないだろうか。もし、自分が日常会話で「考える」を「思う」の代わりに多用するとなると、違和感のある方が多いのではないか。ちなみに、「思う」を英和辞典で引くと「think」と出てくる。日本語において、「think」は、「考える」でもあり「思う」でもある。しかし、「think」をthesaurus(類語辞典)でひくと、主に、

・to have a particular opinion or to believe that something is true

・to use your mind to solve something, decide something, imagine something etc:

と定義され、これは、「考える」の「論理的に筋道を追って答えを出そうとする/結論・判断・評価などを導き出そうとする」(大辞林第三版)と言う説明に近い。言い換えると、「考える」は、主体≒自己を基軸とする目標・アウトプット志向が強いと言えそうだ。一方で「思う」を見ると、「物事・対象に対してある感情や意識をもつ/話し手の個人的な判断や推量」(大辞林第三版)とある。こちらは、目標・アウトプット志向ではなく、むしろ、他者を含む外部存在との間での関係性志向(故に、アウトプットではなく、プロセスが重要になる傾向がある)であると言えるかもしれない。この「思う」は、構文論(文法に厳密に随う)ではなく、理論言語学の言う、極めて強い語用論(語の意味を固有文脈に過度に依存する)を前提とする日本語の特徴との関連で捉える必要がある。ひいては、日本語には、欧米言語でいうところの行為主体である「主語」はなく、あるのは行為主体ではない「話者」であるという学説も視野にいれる必要があろう(『日本語に主語はいらない』金谷武洋、『話者の視点がつくる日本語』森田良行を参照)。

「思う」は、常に他者的存在を想定することから始まる他律的な思考(「思考」は明治時代につくられた造語だが、「思う」と「考える」を合体させた、なかなか意味深長な熟語である)であるといえないか。極論をすれば、「考えるために考える」はあるが、「思うために思う」はないことから想起されるように、「思う」は、対象を想定しないと働かない他動的機能であり、「考える」のように自動的(対象を想定しなくても独立的に機能する)ではない。この意味で、デカルトの「我思う、故に我あり」は、「我考える、故に我あり」とすべきではなかったか。この「考える」と「思う」の根源的な差異の延長線上に、欧米人は「考える」「主張する」「選ぶ」のに対して、日本人は、「思う」「共感する」「合わせる」という指摘が存在する。まさに、相互独立的自己と相互協調的自己という自己構造の成り立ちにまで踏み込む必要もでてくる("Culture and the Self" Markus & Kitayamaを参照)。

この一方で、日常的に、人に対しては「考えてから、ものを言え」などと「考える」という語を使うが、自分に対しては使わない。つまり、「考える」とは、相手に要求する行為であって、思念ではないのではないか。このような日本人が日常的に使う「考える」は、超越的な主体(主語)を基底におく思念である英語の「think」とは、大きく異なる。

この言葉としての定義(理屈)と日常的使い方の狭間で、「考える」と「思う」の違いを感覚的・身体的に捉えている優秀な中央教育審議会大学教育部会のメンバーが、「考える」という表現を用いる時に、語義的な違和感を持つこともなく、自らに考えを強いると言う意味で、ある種の強意表現として「主体的に」を「考える」の前に付したことは、容易に想像がつく。むしろ、「考える」は自らに強いることであると感じる彼等にとっては、これは、自然なことであったのかもしれない。

そもそも、「考える」と「思う」という言葉の概念的な存立基盤の相違を強く認識することなく、対立的な「考える」と「思う」を日常、無反省に混濁して使うと言うことに、問題の本質があるのではないか。つまり、言葉を定義しない日本人は、意識することなく、「思う」を前提に「考える」を語るのである。これは、一事が万事で、リスク享受の「安全」とリスク回避・排除の「安心」とを違和感なく併記することとも同根である。漢字をカタカナに替えただけで、国際化とグローバル化を混同する議論が散見されるのも言葉を定義しないと言う意味では同様であろう。

このように日本における日常的な意味での「考える」は、欧米でいう「考える=think」とは、必ずしも同じものではないのである。これは、連載のテーマである『日本人は、なぜ議論できないのか』の中の「議論」についてもあてはまることであろう。「議論」はどこでも「議論」であるという前提を簡単におくわけにはいかないのである。次回は、欧米の「議論」との対比を通して、日本語の「議論」という言葉を整理して、定義することから始めたい。まず、言葉≒概念の定義をきちんと行なわなければ、「議論」のしようもないのである。

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