迷走する安全保障法制の関連法案とその現実性――異端的論考12

多数の国会議員を有しているので国民の絶大な負託を受けていると言われても、少なくとも、国会で「早く質問しろよ」とヤジをとばす常習犯であり、明らかに品位を欠く総理大臣に国の安全保障のあり方の判断を任せて良いかは心しないといけないかもしれない。

異端的論考12:迷走する安全保障法制の関連法案とその現実性

‐当事者としての自衛官は軍人なのか?‐

安倍政権が、「国会議員の数の論理で押し通すこと」と「外敵をつくりナショナリズムを煽ることで社会を右傾化させること」のセットで、是が非でも通そうとする集団的自衛権の行使に関わる安全保障関連法案の国会採決が、想定外に迷走し始めている。

そもそも、安倍総理大臣は、今年4月のアメリカ議会での演説で、「来月に国会に提出される新しい安保法制の関連法案をこの夏までに成立させる」とまだ提出していない法案(事実、5月15日に新たな安全保障法制の関連11法案として国会に提出された)の成立を約束してしまっているので後には引けない状況にあると言える。

もとをただせば、「もはやただ乗りは許さない、日本もアメリカ主導の集団安全保障スキームの一翼を役務として担え」と言うアメリカの主張はもっともなので、もし中国と一戦を交える覚悟があるのであれば、アメリカの支援は必須であり、アメリカの求める集団的自衛権の容認と行使は、安倍首相としては、他に選択肢はないので、やむをえないと言える。この意味で、安倍政権は、国民の方を向いていないと言えよう。安倍首相の得意な丁寧な説明をしたい「安倍語」でいえば、「アメリカの方を向くことが、国民の方を向いていることになるのです。みなさん」ということか。

このような状況において、当然、日本の平和憲法という存在(安倍語では「頸木」か?)がついて回るわけであるが、これを安倍首相は日本伝来の得意技である、制度変更を行わず、解釈による運用で環境変化を乗り切ろうとしているのであるが、ここにきて迷走モードに入ってきている。

それでも、強気一辺倒の高村自民党副総裁は、今月4日のNHKの番組で、国民の理解が十分得られなくても採決に踏み切る考えを示唆している

そもそも今回の躓きの始まりはと言えば、6月4日に開催した衆議院憲法審査会で、与党自民党が推薦した長谷部恭男早稲田大学教授が、安保法案について「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない。」と明言し、与党が推薦した参考人が政府の法案を否定するという異例の事態となり、前代未聞の「人選ミス」で墓穴を掘ったことに始まるのではないか。これまで、この手の審査会での参考人質疑は、与党推薦の参考人が賛成、野党推薦の参考人が反対というなかば儀礼のようなものであったのだが、それをひっくり返されて、野党推薦の参考人2人とあわせて、憲法学の専門家である参考人3人全員が、「憲法違反だ」と批判したわけである。流石に、この手の政治的茶番劇に興味の低い日本国民でも「これは変ではないか」と思ったのではないだろうか。

これを受けて、あわてた政府は、6月9日には集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案は合憲という見解を示している。これでは、憲法学の専門家に意見を聞いた意味がないと考えるのが普通の神経であろう。安倍政権のシナリオでは、数の問題ではなく、反対が2人でも賛成が1人いるので、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使を含む新たな安全保障関連法案は合憲であるとしれっと言いぬけたかったところだが、それをしくじったわけである。当然、非難の矛先は、審査会幹事の船田自民党憲法改正推進本部長に向かうこととなった。

ここで、また足をひっぱったのが、6月10日の衆院平和安全法制特別委員会における菅官房長官の答弁である。これまで、「安保法制を合憲と考える学者がたくさんいる」と豪語していた官房長官だが、この日の衆院特別委員会では、「数(の問題)ではない」と述べ、事実上前言を撤回し、合憲派の学者について菅氏は「10人ほど」と言ったのだが、結果、「集団的自衛権を合憲とする憲法学者の具体名」として挙げたのは3名だけである。

その3人とは、長尾一紘中央大名誉教授、百地章日本大教授、西修駒沢大名誉教授であるが、いずれも憲法改正運動に極めて積極的な日本会議の関係者である。どうせ、審査会は儀式なのだから、リスクのあった長谷川早稲田大学教授ではなく、最初からこの3人のうちの1人を推薦すれば良かったのにと普通は思うのだが、あまりに露骨で、儀式とは言え、6月4日に開催した衆院憲法審査会に与党推薦の参考人としては呼べない面々であったと言うことであろうか。

今回の衆議院憲法審査会の失態は、人選ミスではなくリスク管理のレベルの低さを物語る。この程度のリスク管理もできない自民党の政治家と安倍政権に集団的自衛権という大きなリスクをまかせても大丈夫なのかと真剣に不安に思うのは筆者だけであろうか。

自民党はそれでも足りないかと、詭弁の世界にはいる。高村自民党副総裁が、「(高度に政治的な判断は回避する)最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある」と朝日新聞などの取材に答えている

こう言われると、「私もたいていの政治家よりも、国家と政治のことを真剣に考えてきた」と言ってみたくなるのは、これまた筆者だけであろうか。これで収まらない高村副総裁は、6月13日に富山市内で講演し、衆議院憲法審査会で憲法学者が安全保障関連法案を「違憲」と指摘したことに関して、「学者の言うことを聞いていたら日米安全保障も自衛隊もない。日本の平和と安全はなかった」と述べている。それでは何のために、憲法学の専門家を呼んで、憲法審査会を開くのか伺いたいところである。まさに、逆切れである。

この失態を受けた結果であろうか、6月20日と21日に朝日新聞が実施した世論調査では、安全保障関連法案への賛否は、「賛成」29%に対し、「反対」は53%と「反対」が過半数を占めている。内閣支持率は、前回(5月16と17日調査)の45%から大きく下落し39%となった。支持率の40%割れは昨年11月22と23日の調査以来で、第2次安倍内閣発足以降の最低に並ぶこととなった

党の重鎮を挙げて、憲法学者は空論で意味がないと言って、この場を押し切ろうとしたのであろうが、またまた、伏兵が現れることになる。6月22日の衆議院特別委員会で、野党推薦の参考人とはいえ、阪田雅裕(第二次・第三次小泉内閣)・宮崎礼壹(第一次安倍内閣~鳩山内閣)元内閣法制局長が、そろって憲法違反であるとの見解を示している。内閣法制局長とは憲法解釈の実務者である。憲法学者の次は、内閣法制局長という憲法解釈の実務者からも否定されたのである。ちなみに、与党は、元法制局長を参考人に呼んでいない。2人を含む歴代法制局長5人とも合憲とは言えないとし、今回の政府の見解には否定的である。与党として、憲法解釈の実務者である元の内閣法制局を参考人として呼べなかったのだと言えよう。

これでは、流石の安倍総理と強気の自民党幹部も国会の会期内での強行突破は無理と見て、同日の夜に、6月24日までの会期を9月27日までの95日延長という現行憲法下で最長の会期延長を決定している。これは、国民に丁寧に今回の集団的自衛権行使が違憲か合憲かという問題の正当性を説明するというのは表向きで、内実は、時間だけはかけたと言う手順の正統性を形式上得ると言う戦術に出たと言えよう。なにせ、アメリカに約束した期限が迫っているので、安倍首相は気が気ではないであろう。

しかし、自民党内部の伝統的保守・右派がここぞと活気づき、予想外にコントロール不能になりつつあるかにも見える。6月25日に自民党本部で開催された若手自民党議員の勉強会である「文化芸術懇話会」で、『永遠の0』などの著作がある作家の百田尚樹氏が安全保障法制をめぐって「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」と発言したことが問題視された。

微妙な沖縄の議論であることもさることながら、話がマスコミをはじめとした言論の規制や統制の方向に飛び火をしてしまい、自民党が放送局から番組内容で聴取をするなど、報道の自由に対して世論が敏感になっているだけに、石破地方創生担当相や安倍首相が火消しに回るはめになっている。流石の自民党も反応し、谷垣幹事長は6月27日、党本部で記者会見し、報道機関に圧力をかけるような発言があった若手勉強会の代表を務める衆議院議員である木原稔青年局長を更迭し、1年間の役職停止処分とすると発表した。また、問題の発言を行ったのは大西英男、井上貴博、長尾敬の各衆院議員だとして、3人を厳重注意とした

しかし、この厳重注意を受けた大西衆議院議員は、6月30日に今の安全保障関連法案が徴兵制につながる恐れがあると指摘する報道について「そう報道している一部マスコミを懲らしめなければいけない」という発言を懲りずにしている。この発言で二度目の厳重注意を受けることになった。3日前の厳重注意を意に介す様子は全くなく、今回の厳重注意が自民党内でどのように受け取られているかが伺えるようだ。議席数が多いので、自民党は、世論など気にする必要もないのであろう。

与党サイドにいる議員の報道の自由に対する意識や感度がこのような国であるので、世界の報道の自由ランキングで日本は韓国に次ぐ、61位という海外の評価はもっともといえそうである。国際テロの標的であるアメリカは、現実のリスクの問題を抱え、49位であり、敗戦国として日本と比較されるドイツは12位である。

ここまでの出来事を前提にした最新の世論調査を見てみよう。まずは、読売新聞が7月3日~5日に実施した調査では、内閣支持率は前回調査(6月5日~7日)の53%から49%と下がり、第3次安倍内閣発足(2014年12月)直後の49%以来、初めて5割を切った。不支持率は、36%から40%に上がっている。読売新聞は、「自民党の保守系議員による勉強会で「報道規制」発言が相次いだ問題について、自民党が勉強会の代表や発言した議員を処分したことを「当然だ」と答えた人は74%に上り、「そうは思わない」は15%」であったことをみて、内閣支持率の低下に自民党保守系議員の「報道規制」発言が影響したとみている

政府が目の敵にする朝日新聞の調査と政府寄りである読売新聞で、内閣支持率に39%と49%という10%の差があるのは、RDS方式調査が無作為であるはずであることを思うと、興味深い。しかし、どちらの調査でも内閣支持率が第三次安倍内閣で最低の数字になっていると言うことは同じである。

それでは、朝日新聞と読売新聞よりも中立的と考えられる毎日新聞が7月4日~5日に実施した世論調査の結果を見てみよう。内閣支持率は、前回の5月の調査より3ポイント下がり42%、不支持は7ポイント上がり43%と支持を逆転している。会期延長した今国会で安保法案を成立させることには61%が「反対」で、「賛成」の28%を大きく上回っている。「マスコミを懲らしめる」など報道規制に関わる自民党保守系議員の発言があったことについては「問題だ」が76%(自民支持層でも7割弱を占めた)に上り、「問題ではない」の15%を大きく上回っている。集団的自衛権の行使などを可能にする安保関連法案への「反対」は前回より5%上回って58%となり、「賛成」の29%を大きく上回っている

安倍首相が、内閣支持率よりも、議席数の多さが内閣の正当性の根拠であると言い抜けるのは当然ではあるのだが、「次の選挙」を考え始める議員は、落ち着かなくなるのではないだろうか。

次なる問題は、この大西氏の発言が示すように、議論は、政府が避けたい徴兵の問題へと飛び火することになる。その前日の6月29日に、自衛官(自衛隊員の中の制服組・武官)出身の中谷真一自民党議員は衆議院安保特別委員会で「一部のみなさんは徴兵制を取り出し『苦役だ』と言われるが、とんでもない」、「わたしは苦役だと思ったことは一度もない」と断言し、苦役論を公然と批判した。元自衛官としての気概と受け取ることもできるが、この見解は、「徴兵は憲法18条で規定する苦役にあたるので、できない」という安倍首相の国会答弁を真っ向から否定するものである。本人の認識は知らないが、元自衛官の気概ですまされる問題ではなかろう。

徴兵制は飛躍しており、非現実的な話なのであるが、この議論が自民党の命取りになりかねないと党幹部は認識しているはずである。

民主党が、7月3日からの配布を予定した「いつかは徴兵制? 募る不安」と徴兵制になるという不安を誘う「ママたちへ 子どもたちの未来のために...」というタイトルのパンフレットを作成し、(お粗末な話で、配布は中止になり、廃棄が決定された。詳細は、参照)、その一方で、自民党が、「徴兵制は絶対あり得ない。だって・・・」で終わる安保法制を一般向けに解説する動画「教えて!ヒゲの隊長」を7月2日にYouTubeに公開している。

安倍首相の本意は、何でも良いから、アメリカに約束した集団的自衛権の行使に関わる安全保障関連法案の国会採決をしたいだけであろうが、予期せぬ自民党内部の右派の暴走によって、ことは安倍首相と菅官房長官の描いていたアジェンダからかい離を始めているのではないか。

自民党にしてみれば、「徴兵制は絶対あり得ない。だって、自民党が徴兵制を公約に挙げたら、高齢者も孫がいれば、さすがに反対なので、全員落選で潰れちゃうじゃん」と言うことである。

徴兵制の議論が引き起こすのは、徴兵制の導入と言うことではなく、まさに、安倍首相が国会答弁で述べた憲法18条で規定する苦役と自衛官の問題である。おそらく、今回の新たな安全保障法制の関連11法案が国会承認され、集団的自衛権の容認と発動によって国外の紛争・戦闘地域に自衛官が派遣されることを念頭に置いていると思うのだが、中谷議員は、「自衛官は国民を危険に晒して自らがリスクを回避するようなことはしない。リスクが高いから低いからという議論でなく、国益に値するのか、国民のリスクが下がっていくのかということを議論すべきだ」と述べて、「自衛官のリスクの話をするなら、名誉や補償といったことも議論すべき」という見解を述べている。

この話の前提には、おそらく自衛官は軍務に服す軍人であると言う認識があるのではないだろうか。しかし、自衛官が軍人ではないとすると、安倍首相の「徴兵(結果的に軍務に服す)は憲法18条で規定する苦役にあたるので、できない」と言う発言に従うならば、自衛官に憲法に違反する苦役を強いていることになってしまう。それでは、自衛官は軍人なのであろうか。

それを問う為には、自衛隊は軍隊であるかを問わなければならない。安倍総理は自衛隊を「わが軍」と呼称しているので、気分は軍隊なのであろう。ここに、自衛隊に関する政府の公式見解がある。正式には、4月3日に安倍首相が、故町村衆議院議長に提出した今井衆議院議員の「安倍総理が自衛隊を「わが軍」と呼称したことに関する質問」に対する答弁書である

その内容は、以下のとおりである。

「国際法上、軍隊とは、一般的に、武力紛争に際して武力を行使することを任務とする国家の組織を指すものと考えられている。自衛隊は、憲法上自衛のための必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の制約を課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものであると考えているが、我が国を防衛することを主たる任務とし憲法第九条の下で許容される「武力の行使」の要件に該当する場合の自衛の措置としての「武力の行使」を行う組織であることから、国際法上、一般的には、軍隊として取り扱われるものと考えられる。お尋ねの菅内閣官房長官の記者会見において、同長官は、このことを含め、従来の政府の考え方を述べたものと承知している。」これは、1990年の衆議院本会議における中山外務大臣(第二次海部内閣)の見解を踏襲している。

つまり、「我々は、自衛隊は、その名の通り通常の観念で考えられる軍隊ではないと認識しているが、国際法上、つまり、他国は軍隊として取り扱ってくれるであろう」と言うかなり御都合主義的・楽観的解釈である。

日本政府が、自ら自衛隊を軍隊と正式に認めていない(憲法9条があるので認めるわけにもいかないが)状況で、自衛官の身分ははたして軍人なのだろうか。現在の自衛官の身分は、特別職国家公務員である。軍隊ではないので軍人ではない。それを暗に認めているのが、7月1日に、岸田外相が衆院平和安全法制特別委員会で、海外で外国軍を後方支援する自衛隊員(自衛官を念頭に置いている)が拘束されたケースについておこなった以下の答弁である。

「後方支援は武力行使に当たらない範囲で行われる。自衛隊員は紛争当事国の戦闘員ではないので、ジュネーブ条約上の『捕虜』となることはない」と述べ、抑留国に対し捕虜の人道的待遇を義務付けた同条約は適用されないとの見解を示し、拘束された隊員の身柄に関しては「国際人道法の原則と精神に従って取り扱われるべきだ」と語った

そもそもジュネーブ条約は、戦地軍隊における傷病者の状態の改善に関する条約が基本にあるように紛争時・戦争時における軍人の取り扱いに関する条約である。後方支援であれば捕虜にならないので安全と言いたかったのかもしれないが、現在の戦争において後方支援は兵站をになうので、極めて重要な機能であり、敵国からすれば、攻撃の対象であり、戦場であろう。故に、むしろ自衛官が軍人であれば、集団的自衛権行使のもと、日本の自衛官も紛争当事国の戦闘員(軍人)に準ずるので、ジュネーブ条約の言うところの捕虜となり、身柄の安全は保障されるべきであると言う方が良いはずであろう。

それを、わざわざ「国際人道法の原則と精神に従って取り扱われるべきだ」と言って、交戦国に判断を委ねると言うのは、もし、自衛官を軍人と認識しているのであれば、理にかなわないのではないか。これはまさに、最善を期待し、最悪を想定しない、極めて日本的な、特に政治家と官僚お得意の甘い発想であろう。いずれにせよ、岸田外相の答弁は、政府が、自衛官は軍人でないと認めたことになるであろう。

より大きな問題は、自衛官が、後方支援とは言え、紛争地域で想定外の状況で、交戦国の戦闘員を自衛官の意思に反して殺害して、捕縛された場合、この自衛官は、軍人ではなく、一般人として裁かれるので、殺人罪を追及される可能性は排除できないはずである。戦争状態における軍人の殺人は、殺人罪の適用範囲外であり、戦争とは国家間で公認された殺人である。自衛官にはこれが適用されない可能性が高い。先の政府の自衛隊に関する公式見解は、前述したように、「我々は、通常の観念で考えられる軍隊ではないと認識しているが、国際法上、つまり、他国は軍隊として取り扱ってくれるであろう」というように、自衛官が軍人であるかどうかは、相手国の判断次第と言っているわけである。

一般常識として、交戦国が、日本に都合のよい解釈をすると考えるのは、まさに、極楽とんぼであろう。交戦国に、自衛隊は軍隊でないと言われたらお終いである。このことを自衛官は認識していると思うので、軍人と言う身分を明確化してくれなければ、集団的自衛権などやってられないと感じているはずである。現状は、まさに、国を守ると言う使命に忠実な自衛官の純粋な思いを安倍首相と自民党が利用していると言えよう。

それでは、政府は自衛官を軍人であると公式に認めることができるかであるが、憲法で軍隊を持たないと明記してあるので、憲法を改正して、自衛隊を軍隊とする以外にはなかろう。ここに、前述した、日本的な解釈論で状況の変化に対応しようとする運用による適応というアプローチの限界がある。そもそも、内閣の憲法解釈で、集団的自衛権が認められるのであれば、集団的自衛権に反対する政党の内閣になれば、それは違憲であるとして否定するであろう。これを政権の交代ごとにやっていては、国際社会の信任は全くえられない。世界の笑いものになるのは必定である。世界がグローバル化し、環境変化が激しくなる中で、日本的な解釈による運用でその場をしのぐというやり方とはそろそろ決別した方が良いのではないか。

また、政府が主張する抑止の概念は、冷戦時代の遺物であろう。現実的に考えて、中国が日本全域を標的とした核弾頭ミサイル(日本を攻撃する準中距離弾道ミサイルの主力はDF(東風)‐21C型であるが、最新型のDF‐21D型は射程距離が3000キロメートルに達する対艦弾道ミサイルである。「空母キラー」と呼ばれるDF-21D型は米軍空母艦隊への大きな脅威であり、米国が最も懸念する中国の新型兵器の一つである。中国は、50-100基のDF-21を保有していると言われている)を十分に配備している状況である一方で、自衛隊は、十分なミサイル迎撃機能を持ちあわせていない。

政治家が主張する、アメリカ艦隊による海上からの迎撃は、実効的にも政治的にも機能しないはずである。そもそも、アメリカが日本を守るためにアメリカ本土を危険にさらして、中国と一戦を交えると真剣に考える読者はどのくらいいるであろうか。最終的に中国との安定的ジョイントヘゲモニーを念頭に置いているアメリカにとって、今回のアメリカ主道の集団的自衛権のスキームにあって、日本はそこに至る上での捨て駒でしかないということを日本人は認識すべきであろう。

実際自衛隊がしていることを見ると、陸上自衛隊が、沖縄県・先島諸島などの離島への中国による侵攻に備え、最新鋭の「地対艦誘導弾(SSM)」を熊本県・健軍(けんぐん)駐屯地に集中配備する程度である。これを持って、中国への抑止と安倍首相は主張するが、それは疑問である。通常の国際政治学での抑止論の基本的な定義は「相手がこちらに危害を加える行動にでるならば、相手に対して重大な打撃を与える意思と能力をこちらが有していることを、予め相手に対して明確に言動において示し、相手が有害な行動にでることを思いとどまらせること」である。このような抑止関係を成立させるためには、「十分な報復能力」と「報復する強い意思の明示」、最後に、「これを理解する相手側の理性を前提とする相互了解」が必要である。この意味で、日本の現状を見てみれば、政府の言う、抑止力は気休め程度であるのはおわかりいただけるであろう。

もし、本当の意味で、抑止と言うのであれば、日本は核武装をして核弾頭ミサイルを中国の主要都市に向けて配備するしかなかろう。これは現実的であろうか。しかし、抑止と言うのであればそこまで行くしかなかろう。当然、それにより高まるリスクも享受しなければならない。

現実的には、太平洋戦争末期にひとしい、財政破綻がささやかれるほど、世界で突出している厳しい財税赤字状況のなかで、戦争を行う国家的体力は日本にはない。加えて、前線で任務に就く自衛隊も日本社会同様に高齢化に苦しんでいるのである。つまり、日本は、実際に戦争のできる状態の国ではないのである。

また、技術と融合したグローバル化が進む中で、国家の相互依存が度合を深め、国家のアウタルキー(自足自給経済)が可能ではない国際社会において起こるのは、得るものよりも失うモノの方が多い国と国との全面戦争ではなく周辺での紛争程度であろう。また、古くは、コソボを攻めたセルビア、新しくは、ウクライナ問題におけるロシアを見ればわかるように、グローバル化が進むなかでは、軍事行動よりも、経済制裁(これは、国家主導の経済制裁よりも国際金融市場から見放されることのインパクトの方が大きくなってきている)の方が効力は高いのである。

おそらく、抑止力としては、軍事力よりも、グローバル化した金融市場から受ける制裁の方が高いのではないか。つまり、技術と融合したグローバル化が進む中、グローバル社会において、国民国家(超大国のアメリカですら)はもはや絶対的プレーヤではなく、グローバル化した金融市場と急速に力を付けた総体としての個人という3つのプレーヤの一つでしかないと言えよう。集団的自衛権とは、アメリカ主導とはいえ、抑止力と言うよりも、グローバル化の中で上方統合され、主権の低下する国民国家の現状を象徴するものであると言えよう。

国家間の全面戦争の可能性が低い中で、課題となるのは、テロであろう。しかし、テロ組織が相手では、国際法もジュネーブ条約も意味を持たないのではないか。そして、抑止と言う観点では、「十分な報復能力」と「報復する強い意思の明示」は良いとしても、「これを理解する相手側の理性を前提とする相互了解」が成り立つとは思えないので、集団的自衛権もテロ組織に対する抑止になるとは思えない。海外に派遣される自衛官は、軍人であろうとなかろうと、リスクに晒されるのは必定である。にもかかわらず、「自衛官は安全」と言ってのける安倍首相の理屈が良く分からないのは筆者だけであろうか。

加えて、より根源的な課題は、テロを行うのは自国人であることが多々あると言うことである。フランスでのシャルリ・エブドゥ襲撃事件の実行犯二名はフランス人であったが、民主国家において、軍隊は主権者である自国民に銃は向けられない。筆者は当時パリにいたのだが、フランスのメディアも軍隊の投入に関しては、報道を控えていた印象を強く受けたのを覚えている。従来は当たり前であった国防と治安の境目が不明確になりつつあるのである。言い換えれば、軍隊と言う存在そのものが問われる社会に向かっているのではないだろうか。つまり、安全保障に対する認識の転換が迫られているのである。この認識の転換も含めた集団的自衛権の論点については、『集団的自衛権と安全保障』(豊下樽彦・古関彰一著 岩波新書)が参考になる。

このように抑止という観点で、安倍政権の考える集団的自衛権の容認と行使の行きつく先が非現実的であるのであれば、憲法九条を尊ぶと言うのも、リスクはあるが、選択肢の一つになるのではないだろうか。この議論の間の現実論として、「自衛隊を活かす会」の主張は興味深いのではないだろうか。

いずれにしても、国民が、どのようなリスクを取るかを真剣に考えることが前提である。少なくとも、日本人の好むリスクを排除し、リスク・フリー状態(これは、あり得ない)であると思う「安心」というマインドから脱却し、リスクを最小化して享受する「安全」といマインドを強く意識する必要がある。今求められるのは、安倍政権が主張する「安心保障」ではなく、国民各自が考える「安全保障」なのである。

その安倍首相は、2014年2月12日の衆議院予算委員会で、「憲法解釈の最高責任者は私だ」と言っている。有言実行で「憲法解釈」の変更を積極的に推し進めているわけだが、谷垣幹事長の発想と合わせて理解すれば、要は、「最高裁が判断するまで(違憲審査の手順は煩雑で時間がかかる)は何をしてもよいのだ(どうせ、最高裁は判断を下さない)」、という表明であろう。三権分立を担うはずの日本の司法の現状については、議論もあろうが『絶望の裁判所』(瀬木比呂志著 講談社現代新書)を読まれると良い。

多数の国会議員を有しているので国民の絶大な負託を受けていると言われても、少なくとも、国会で「早く質問しろよ」とヤジをとばす常習犯であり、明らかに品位を欠く総理大臣に国の安全保障のあり方の判断を任せて良いかは心しないといけないかもしれない。国民にも投票した責任はあるので、日本国民の品位と良識も問われる。こういう人に「政治家の責任だ」と言われても、「信頼できかねますね」と言うのが筆者の率直なところであるが、読者諸兄は如何にお考えになるであろうか。

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