真珠湾に展示された「禎子の折り鶴」 実現の背景と意義

資料館の展示は単に真珠湾攻撃を展示するだけではなく、第2次世界大戦に至る近代日本の歴史、社会変化、産業化、軍事化について史実に基づいた公正なものに移行した。これは私の解釈であるが、なぜ日本は真珠湾攻撃を「せざるを得なかったか」の背景についても力点が置かれているように感じた。

20年以上も前のことを私は思い出していた。私が日本人だとわかると、隣に座っていた高齢の白人アメリカ人夫婦は私を睨みつけ、立ち去った。

真珠湾攻撃を記念するアリゾナ記念館での出来事だ。

そして2013年9月21日のアリゾナ記念館。原爆症のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんの「折り鶴」の展示開幕式が行われた。式に出席した禎子さんの兄雅弘さんと92歳の戦艦アリゾナの生存者ローレン・ブルーナーさんは手を取り合い「私たちは友人同士だ」と満面の微笑みを浮かべていた。

除幕式で演説をする真珠湾国立記念碑公園の学芸員は、「折り鶴は小さいものです。でも、そのインパクトはとてつもないものです」と、むせび泣きながら話した。雅弘さんは「ありえないことですよ」と感動を表現した。

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今年の春から、私はハワイ大学マノア校で真珠湾攻撃と原爆投下の政治的関連性について研究をしている。禎子さんの折り鶴が真珠湾のアリゾナ記念館資料館に展示されることを知ったときは、「それは、ありえないだろう」と思った。

アリゾナ記念館は、真珠湾攻撃で犠牲になった兵士を弔い記念する慰霊碑だ。それだけではなく、奇襲攻撃を受け大被害を受けた真珠湾を国家の「屈辱の日」とし、「リメンバー・パールハーバー」を標榜して「日本を打ちのめして完全勝利」することを誓った聖地なのだ。そして、この誓いを果たしたアメリカの戦闘をたたえる「武勇記念国立公園」でもある。

一方、「禎子の折り鶴」であるが、物語としての「Sadako」は児童文学や絵本を通して日本よりもむしろアメリカなど欧米の子供たちの方がよく知っている。平和の希求を象徴することはもちろんだが、生きることへの希望、そして無念さを読者の心に刻む。

このことは、原爆の残虐性、無辜の少女までもが犠牲者になる無差別性、そして原爆症がいつ発症するかわからない放射能の恐怖も同時に読者に伝える。言い換えれば、アメリカの戦争行為に対する痛烈な非難である。

つまり、象徴するものが真正面から衝突する「真珠湾」と「禎子さんの折り鶴」は政治的には「併存」できるものではなかった。

95年の終戦50周年にワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館で予定されていた(広島に原爆を投下した)エノラゲイ展示のことを思い出す必要がある。詳しくは書かないが、原爆投下を巡る展示内容が「史実に基づいて」記されていたこと、そして、被害の実相を伝える遺品や写真が展示予定だったことから、退役軍人会、パット・ブキャナンら保守派の政治家、ワシントンポストなど多くのマスメディアが総攻撃を仕掛け大政治問題になった。

中でも、焼け焦げた少女の弁当箱の展示計画は「日本人に同情的だ」とやり玉に挙げられた。

軍や保守派の原爆に対する見解は、軍事基地を攻撃した正当な戦略的行為であり、それによって日本を降伏させた、というものだ(注1)。この見解は「信仰」とも呼べるもので、原爆による市民の被害を伝えるものは、彼らにとって絶対に許せないものだ。展示は中止になり、館長は辞任に追い込まれた。

2歳の時に被爆、その後白血病を発症してしまった少女の遺品、原爆症と戦いながら生きる希望を祈りながら作り続けた折り鶴が展示品になりえることは「ありえない」ことだった。

このように原爆の展示が葬り去られる事例がありながらも、どうして「禎子の折り鶴」の真珠湾展示は実現できたのだろうか。

禎子さんの願いを理解する人々の強い思い、佐々木家の仲介役になって活躍されたニューヨーク在住の源和子さんの献身的な努力(注2)、ハワイの日系人社会の結束力、そして、これから説明することが結実したのだと思う。

原爆投下を決定したトルーマン大統領の孫であるクリフトン・トルーマン・ダニエルさんが真珠湾の太平洋国立公園の知人の学芸員に打診したことが大きい。禎子さんの兄雅弘さんの「大胆な」願いをダニエルさんが共感して快諾してくれたのだ。雅弘さんが直接持ちかけたのであれば、政治的な配慮によってどうなったかわからない。

最後に、最大の要因といえるのが時代と世代の変化である。エノラゲイの展示が政治的な大問題となったのは1994年だ。80年代のアメリカによる「日本たたき」、いわゆるジャパンバッシングの残滓が色濃く残り、なにより太平洋戦争で帝国日本と戦った退役軍人がまだ多く存命の時だ。今では退役軍人のほとんどは天に召され、存命者は90歳を超える高齢である。政治力の低下は言わずもがなだ。

そもそもエノラゲイ展の内容を企画したのは博物館の学芸員である。国立公園局の学芸員も同じで、リベラルかつ公正な人が圧倒的に多い。そして、90年代から真珠湾は融和の地になるべきだという意識が芽生え始めていた(注3)。「スミソニアンを繰り返してはならない」という意識もあったはずだ。

この流れが結実したのが3年前のアリゾナ記念館展示館の大変革だ。「Remember Pearl Harbor」によって「屈辱を継承する」という意味から、「Pearl Harbor to Peace」へと大転換した。テーマは、「融和」(reconciliation)である。

資料館の展示は単に真珠湾攻撃を展示するだけではなく、第2次世界大戦に至る近代日本の歴史、社会変化、産業化、軍事化について史実に基づいた公正なものに移行した。これは私の解釈であるが、なぜ日本は真珠湾攻撃を「せざるを得なかったか」の背景についても力点が置かれているように感じた。

こうして、少女さえもが犠牲になることを伝える展示が実現したのだ。「禎子の折り鶴」は真珠湾に平和と融和の願いを添えてくれたと思う。

注1.歴史学的には、日本の降伏はソ連の参戦が決定づけたのであり、原爆投下の影響は限定的だった。

注2.源さんの著書『奇跡はつばさに乗って』に詳しく記されている。

注3.真珠湾攻撃50周年式典演説でブッシュ大統領(父)が「我々は融和へと進む準備はできている」と呼びかけたことが転換のきっかけになったと推測できる。

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