安倍首相が弔問したシンガポール前大統領は、日本語堪能、日本赤軍テロの人質身代わりも務めた

S. R. ナザン シンガポール前大統領が2016年8月22日に92歳で亡くなりました。

S. R. ナザン シンガポール前大統領

S. R. ナザン シンガポール前大統領が2016年8月22日に92歳で亡くなりました。

安倍首相夫妻は、アフリカ開発会議 (TICAD) 出席のためにケニアに向かう途中に、給油のためにシンガポールに立ち寄り、弔問を行っています。出迎えはリー・シェンロンシンガポール首相夫妻等が行いました。

広島で原爆被害者に会った初の外国元首

弔問で安倍首相はナザン前大統領夫人に対して以下のように述べています。

「ナザン前大統領は,2009年にシンガポールの大統領として初めて国賓訪日され,その際に広島において原爆被害者に会われた初めての外国元首でもあり,日本国民はこのことを決して忘れません。」

弔問に先立った弔意メッセージでは、ナザン前大統領と日本の深い関わりを述べています。

『日本語も堪能な大変な親日家でもあられたナザン前大統領は,2009年に国賓訪日をされた今日の日本とシンガポールの友好関係の発展にも並々ならぬご尽力をされました。特に,1974年にいわゆるシンガポール事件が発生した際に,文字通り身を挺してその解決に多大な貢献をいただきました。』

日本とシンガポールの外交は近年極めて良好です。安倍首相は、シンガポールのリー・シェンロン首相とも頻繁に会談しています。昨年、リー・クアンユー初代首相が亡くなった時には、国会期間中のため日帰りの強行日程で、安倍首相が国葬に参列しています。

ナザン氏が日本語ができるのも、情報機関に所属したのも、日本統治がきっかけ

ナザン前大統領は、日本語が堪能で、情報機関出身でした。太平洋戦争中に日本軍がシンガポールやマレー半島等を占領したことで、ナザン前大統領は独学で日本語を覚え、公務員としてのキャリアを日本統治下の警察で始めることになります。

幼少期に大変な苦労をしたナザン前大統領

ナザン前大統領は幼少期にとてつもない苦労をしています。

  • 幼少期に、大恐慌の借金を苦に父が自殺。
  • 小学校に入学し、優秀であったため学費免除となる。
  • 12歳。ボクシングの切り抜きに新聞を買うために同級生から分割払いをし、払えなくなったため、その同級生の教科書を売り飛ばし借金を返した。通報され、放校になる。
  • 16歳。次の学校で、同級生が教科書を失い、今回は盗っていなかったのに疑われ、放校となる。
  • いたたまれなくなって家出をして生活する。生まれ育ったシンガポール隣のマレーシアのジョホールで仕事を見つける。何かを成し遂げるまで家族に顔は見せないと決意。
  • 制服、革靴、小遣い欲しさに対日本戦に備えた志願兵に応募するが、体格が小さく落とされる。17歳で太平洋戦争に突入。

太平洋戦争での戦闘

マレーシアのジョホールのスルタン(君主)は日本と仲がよく、天皇から勲章をもらい、日本が所有する鉄鋼山やゴム園があったので、ジョホールが割譲されるとの噂すらありました。そのため、1942年1月11日に日本軍の飛行機が、ナザン氏がいたムアールをマシンガンで攻撃し爆弾を落としたのは衝撃でした。空襲の際に、ナザン氏は道端の用水路に飛び込んで難を逃れますが、その時にいた仲間は爆殺されています。

どのようにして日本語を学んだか

友人といた時に、市場への道を日本兵に尋ねられ、ナザン少年は道を教えます。その中のひとりの少尉は、ナザン少年が同行して店主と交渉するのを手伝って欲しいと主張しました。その将校は「アマヤさん」でした。

フルーツを買うような用事をナザン少年に彼らは頼みました。支払いは軍票と日本の煙草でした。煙草は闇市で良いお金になるから喜びました。日本軍のキャンプに行き、なにか用事がないか聞いて回る日々でした。

ある日、アマヤさんは「どうして日本語を学ばないのか」と尋ねてきます。ためらっていると、親について尋ねます。「インド人」と答えると、「(インド人なのになぜ母国語でない)英語を学ぶのか」と聞いてくるのです。「生活のため」と答えると、「それなら同じ理由で日本語を習ってもいいんじゃないか、日本人は"しばらく"このあたりにいるんだから」と彼は言いました。

次にナザン少年がアマヤさんに会ったとき、彼はナザン少年に英和辞書を与えました。辞書の助けと、日本兵から言葉を幾つかまねて、徐々に日本語に慣れていきます。当時のナザン少年の日本語はうまくはなかったが、おつかいをするのは簡単になり、お金が貯まります。ナザン少年が日本兵からの信頼を得たのは、彼の人柄だけでなく、インド系というのも大きかったはずです。

当時、日中戦争で中国を支援している中華系移民がおり、ゲリラを恐れるあまり、日本軍はシンガポール華僑虐殺事件を引き起こしています。日本軍は、マレー系とインド系にはそこまでの警戒はしていませんでした。

アマヤさんは、上司のコクブさんを紹介ます。コクブさんは声を荒げることなく、尊敬を勝ち取っており、物事を成し遂げている人でした。彼はいくつかの助言をします。「ナザンは日本語ができるので、悪いことを頼んでくるやつがいるかもしれない。頼まれたことが正しいか間違っているかを、自分の良心に問わねばならない。」彼の助言は正しかったのです。

多くの人が、ナザン少年を金持ちにしたり、トラブルに巻き込むような物事を頼んできたのでした。コクブの助言は、誘惑に打ち勝つ決心をナザン少年に与えます。当時、地元民には敵対的行為であるはずの日本人と働いていても、ナザン少年には復讐行為はありませんでした。

数ヶ月後、コクブは移動する直前に、運輸会社の日本人マネージャーにナザン少年を紹介します。通訳兼代理人として、ナザン少年が働くことになります。月給は100ドルでした。インフレが悪化する前の、日本軍進駐初期の給料としては結構な金額でした。正直な従業員として、日本人マネージャーの信頼を徐々に得ます。数ヶ月後、ジョホールバルの本社で仕事をすることになります。

警察でのキャリア

ジョホールバルでは、警察と同じビルにある車両登録局に訪れることがありました。そこでの日本人責任者と仲良くなり、マレー語ができない日本人責任者のために、運輸会社から警察にちょくちょく呼び出され、彼の指示をマレー語で伝えていました。

運輸会社と警察との間で、ナザン少年を巡っていさかいが始まり、運輸会社はナザン少年をあきらめ、ナザン少年は終戦まで警察司令部で働くことになります。

警察は大きく2つの部署があり、1つは通常の治安対応、もう1つは共産主義者マラヤ人民抗日軍 (MPAJA: Malayan People's Anti-Japanese Army) のような抗日ゲリラ活動対策でした。共産主義者への対応は憲兵隊 (軍警察) と協力して中華系が行っていました。多くの職員が汚職に手を出しており、終戦後はマラヤ人民抗日軍が報復するターゲットになります。

終戦後、ナザン少年は報復を恐れましたが、幸いにも中華系からの悪感情は感じませんでした。

日本軍で働いたことでのシンガポールでの評価

日本軍占領下でのナザン少年の体験は、多くの人と大きく異なっていると自身で述べています。ジョホールの運営ではプロフェッショナルで公平な日本人がおり、管理業務をするためにマレー系とインド系に頼り、共産主義者との対峙には中華系に頼っていた。イギリスが作ってきた管理制度を保ち、英語を使用した。高い文化と民度を持つ日本人に出会ったとのことです。

しかしながら、日本人役人の中に見た高潔な人格と、マレー半島とシンガポールで人々を日本軍が残酷に扱った野蛮さは、ナザン氏には同時には相容れないものでした。当時は、日本軍のために働くことは敵対的行為でした。

ナザン氏は、終戦後にジョホール警察の仕事に応募した際に、面接官に日本統治下での通訳の仕事を否定され、「(日本軍への)協力者」だと非難されたと語っています。

「日本軍はアジアを開放した」と考える人もいますが、「開放して欲しい」と日本にシンガポール現地民は頼んでいません。シンガポール華僑虐殺事件、憲兵隊に代表される強硬な統治政策、経済的困窮のために、「シンガポールの近代史で最も暗黒の年」とシンガポール国立公文書館は日本統治を評価しており、イギリス統治がはるかに良かったと捉えられています。マラヤ人民抗日軍や136部隊といった抗日軍での活動が愛国的だったということです。

しかし、ナザン前大統領やリー・クアンユー初代首相は、占領中に日本軍のために働いており、生き延びるためにやむをえなかったとみなされています。ただし、今でも野党支持のニュースサイトでは「ナザン前大統領は日本軍のために働いた売国奴だった」という評価もあります。

参考資料

50 Stories from My Life Paperback - by S R. Nathan (Author)

シンガポール事件とナザン前大統領

シンガポール事件は、シンガポールではラジュ事件 (Laju incident)と呼ばれています。

1974年1月31日、サブマシンガンと爆発物とで武装した4人のテロリストが、シンガポールのシェルの石油精製施設を爆破しようとしますが、1万5千シンガポールドルのオイルの流出という小規模な損害にとどまります。

爆破の目的は、当時はベトナム戦争最中で、北ベトナムを支援するため、シンガポールから南ベトナムへのオイル供給を混乱させることが目的でした。当時のシンガポールは世界で3番目に大きい石油精製センターであり、もし爆破が成功していれば、数年間は地域のオイルが不足していたと見られています。

4人のうちの2人は、パレスチナ人民解放戦線からアラブ人、2人は日本赤軍からの日本人でした。警察の追跡を受けて、テロリストはラジュ号というフェリーをハイジャックし、5人の船員を人質にします。

交渉の末、シンガポールからの安全な脱出と引き明けに、人質の開放にテロリストは同意。日本政府が手配した日本航空機で、クウェートに向かいます。当初は日本政府は飛行機手配を嫌がっていたのですが、在クウェート日本大使館で、テロリストが別の人質事件を起こしたことで、日本政府も最終的に折れました。

加えて、テロリストは、自分たちに同行する安全保証人を望んだため、ナザン氏が率いる13人のシンガポール公務員が、飛行機に共に乗り込みました。当時ナザン氏は、防衛省の保安情報庁 (SID) の所長 (ダイレクター) でした。事件から40年近くたった2011年にインタビューに応えたナザン氏は「何が待っているか分からなかったので、自信がなかった。妻を見て「行ってくるよ」と言った」と当時を語っています。

ナザン氏は機内でハイジャック犯に話しかけます。現在では世界遺産に指定されたボタニックガーデンの道路向かいをアジトに彼らはしており、庭の穏やかさを懐かしがっていました。

クウェートの空港に到着すると、周りをクウェート政府の武装車両で包囲されていました。クウェート政府は、シンガポール人代表団を長時間の交渉の末、しぶしぶ降機させます。これ以上、クェート政府は厄介事に関わりたくなかったのです。シンガポール代表団は、クゥエート航空でバーレーンに出て、そこからシンガポール航空で帰国します。出発から2日近くが経っていました。

「この出来事が流血無く終わったことに個人的に感謝してる」とナザン氏は述べており、長年この事件に触れてこなかったことには「私がしたのは仕事だった。我々全てが忘れたい出来事なのだ」とのことです。

ハイジャック犯はクウェートから、犯人受け入れを表明した南イエメンに向かい、現地政府黙認の上で逃亡しています。

※筆者撮影。一般弔問。議会内は撮影禁止のため、屋外設置のテレビモニターから見える、ナザン前大統領の議会での安置の様子。

本記事は下記からの要約です。

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