「共生」が憎しみ合いに転じるのを許さないために立ち上がる~フランスからの報告

かつて日本に滞在し、NPO法人もやいの活動にもボランティアとして参加したことのあるフランス人研究者のマリーセシールさん(Marie-cecile Mulin)に、今回の連続テロの背景についてメールでうかがったところ、お返事をいただきました。

1月7日に発生した『シャルリー・エブド』襲撃事件に始まる一連のテロは、フランス、そして全世界に大きな衝撃を与えました。

フランスでは、1月11日の午後、パリ中心部で開かれたデモ行進に百数十万人の人々が参加しました。フランス全土でデモに参加した人数を合わせると、参加人数は370万人を超えたと言われており、フランス史に残るデモ行進になりました。

今回の一連の事件はフランスでどのように捉えられているのでしょうか。

かつて日本に滞在し、NPO法人もやいの活動にもボランティアとして参加したことのあるフランス人研究者のマリーセシールさん(Marie-cecile Mulin)に、今回の連続テロの背景についてメールでうかがったところ、お返事をいただきました。

マリーセシールさんは11日の歴史的なデモ行進に参加し、そこで撮影した写真も提供してくださいました。

多くの方にフランスからの報告を読んでいただき、私たち日本社会のあり方について考える材料にしていただければと願っています。

なお、マリーセシールさんが日本の貧困問題をどのように見たのか、という点については、もやいブログに連載記事がアップされているので、こちらもご参考にしてください。

「海外からのもやいボランティアインタビュー」

質問1:フランスでは事件はどのように受け取られているか?

フランスでは、1789年に「人権と市民の権利」の宣言が採択されてから、ブラスヒーム(神への冒涜行為)罪は撤廃されました。その結果、国家と宗教が分離され(1905年政教分離法成立)、そのことで原理が決定的に制度化され、世俗主義は私達の国家の核として形成されてきました。世俗主義のことをフランスでは"laïcité(ライシテ)"と呼んでおります。

これまでにも、『シェルリーエブド』に掲載された漫画によって侮辱されたと感じたフランスカトリック教会やフランス国内のイスラム教組織が風刺漫画家達を相手に何度も裁判を起こしてきましたが、それでも彼らが糾弾されずにきた理由はこういう背景があるからです。それは、宗教を扱った風刺画に対するフランスの寛容さとも説明できます。時には低俗で露骨なものであってもです。

『シェルリーエブド』は、その不遜なユーモアセンスと因習打破の漫画と記事でフランス国内でも有名な新聞社です。そこで働くジャーナリスト達(大体はアナーキストか極左の人たちですが)の信条は、反啓蒙主義とあらゆる形の支配的イデオロギー相手に闘うことです。

大部分の一般市民は自分の宗教が何であれ、≪laïcitéライシテ≫と≪表現の自由≫の原理に深く共感しており、1月11日にパリで行われるデモには多くの人が参加を表明しています。(仏内務省発表370万人!!が参加)

たとえ、『シェルリーエブド』の故意に挑発的な記事に対して、時に意見を異にする人でも、「フランスをひざまずかせようとした行為がフランスを立ち上がらせた」という一文によってテロリストに対する自らの態度を表明しているのです。

人々が示したいのは、一つは自分たちが決して恐怖に屈服しないということ、そしてもう一つは、狂信的なテロリストと他のイスラム教徒達を決して混同しないということ、最後に、私たちが団結して立ち上がる事で「共生」が憎しみ合いに転じるのを許さないという強い姿勢を示すことです。

極右政党を支持する人たちの中には、今回の事件をイスラム教徒全体のせいにしようとしている人たちもいます。私達はこういう危険な考えを注視し、阻止していかなければいけません。

それと同様、イスラム教徒の人々の中には、今回のテロ行為を非難しない者もあります。パリや大都市を囲むスラム地域に住む貧困層の若者などです。そういう人たちは、「JE SUIS CHARLIE 私はシェルリー」といったスローガンに共感できず、「私はシェルリ―ではない」と表明しています。この現象は二問目の質問の答えに続きます。

質問2:今回の連続テロの社会的背景に何があると思うか?

最初の質問で、スラム地帯で育つ貧困層の若者の様子をお答えしましたが、どうして高校生たちがこのようなリアクションをしているのでしょう? その理由は、彼らが存在する環境と、将来の見通しの無さにあります。今回のテロリストたちがなぜあのような野蛮なテロ行為に及んだか、その説明にもなります。

60年くらい前のフランスでしたら、貧困に苦しむ者が貧困を脱出し、自分や家族がより豊かな将来を獲得する為の主な手段は学校教育でした。実際、教育は社会、民族、文化など、社会統合の強力な武器でした。様々な国からフランスに移ってきた移民や、社会的排除を受けてきた市民達は、教育によりフランス社会と統合し、さらに独自の文化と併せ、より一層文化を充実させていきました。それでも、みな同じ価値観を共有することができたのです。しかし、70年代初頭から状況は変わり始めます。失業者が増加し、個人主義の台頭...私たちの世俗主義的な社会の基盤が崩れ始めたのです。

かつて貧困層だったものの、教育システムを最大限に活用できた人たちは、スラム地域から出て行きました。今スラムに残っている人たちは、主に近年の新しい移民を中心とする人たちが多いのですが、失業と貧困に直面する人々は年々増え、その子どもたちはもはや教育システムがきちんと機能していない学校に取り残されてしまいました。それとともに高まるレイシズムや差別が彼らの困難に追い打ちをかけているのです。

同時に、大多数の政治家達の関心はこれらの貧困層から徐々に離れていき、彼らはひどい苦境の中で自力で生活していくことを課せられます。そんな苦境の中で、彼らは政治/宗教過激派のいいカモになってしまいます。共同体や地域社会で孤立した人々が外国人排他主義で知られる極右政党「国民戦線」に吸収されていく。そんな現象が知らず知らずに増殖する癌細胞のように社会に拡がっています。

将来に希望が見出せず、差別され続ける若者たちの中には、宗教に逃げ道を求める者も出てきます。それは貧困と無知によって拍車がかけられます。そして、そういった若者たちの苦悩は宗教の原理主義者に利用されてしまうのです。この憂慮すべき現象は、フランス以外のヨーロッパ諸国でも見られるようになってきました。パリで起きたような事件が、どこで起きてもおかしくないのです。

質問3:最後に日本の皆さんにメッセージをお願いします。

困難な時代において社会的つながりは非常に重要な概念で、責任ある社会であれば、困窮している人々を助けていくのは必要不可欠です。しかし、このことをフランスはこれまで成し遂げることができないできました。しかし、皮肉なことではありますが、(事件が起きてからの)3日間で私たちは「共和国の良心の光」とでも呼ぶべきものを改めて始めることができたように思います。

『シェルリーエブド』の社員が命を落とした「表現の自由」に関してですが、あらゆる民主主義が絶対に死守しなければいけない極めて重要なものです。そして、「表現の自由」がテロ防止の為とか、国家防衛の為などという口実によって踏みにじられぬよう絶えず注意していなければなりません。私たちの社会や生活を守るためには、新聞やメディアの言論統制をさせてはいけないのです。私たちが油断していたら、フランスも日本もこのような脅威に直面することになるでしょう。(Marie-cecile Mulin)

(2015年1月13日「稲葉剛公式サイト」より転載)

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