移民と難民の定義を再考してみた

残念ながら我々の多くは、両者を同一視する傾向を持っていまいか?

移民と難民という言葉が頻繁に使われている。

両者の違いは間違いやすく、安倍総理大臣が両者を混同して使用したことも指摘されている。そこで、様々な機関や有識者は、大きな違いが存在すると解説する(国連広報センター難民・移民学研究者国連難民高等弁務官事務所留学生など)。

しかし、である。BBCニュースは2015年のヨーロッパ移民・難民危機勃発以降、記事の最後に必ず語彙使用の注意書き(例えばこの例)をしているように、やはりそんなに単純ではないのではないか。

また、移民と難民の違いは制度の違いであって、必ずしも当事者の状況や意図を反映しているとは限らないとも思うのである。三つの視点から考えてみよう。

1)まず、移民と難民の最大の違いは「迫害を受ける恐れ」があるかないかという点に集約されるだろう。すなわち、母国にとどまりたいという本人の意思に反して国外退去せざるを得なかった人を一般的に難民と呼ぶ。

難民条約ともいえる1951年に採択されたジュネーブ条約の定義は当時の状況を反映している。橋本によると、特定の集団への迫害を想定したかなり厳格なものになっている。すなわち、紛争全般は含まれない。

しかし、実際昨今の難民問題を例にすれば、この定義は時代遅れになりつつあろう。シリア内戦やアフガニスタン戦争を逃れた人々は難民(に準ずる)と考えて差し支えないだろう。

しかし、物事はそれほど単純ではない。仮に紛争や迫害が終結したとしよう。逃れてきた難民は母国に帰還するだろうか?状況しだいではないだろうか?

紛争で荒廃した国に将来を見出せない人は大勢いるはずだ。紛争後の復興には最低でも数年、数十年かかる可能性も高い。そうなると、彼らは「経済移民」へと変貌し、定住の道を選ぶかもしれない。最終的には避難した国の国民となりえる。

また、現在の紛争の多くは長期化の様相を呈す。つまり、「生涯難民」という人々が生まれつつあるのが現状なのではないか。

ちなみに、私の住むオーストリアには、多くの旧ユーゴスラビア移民がいる。ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、スロベニア、クロアチア、コソボ、マケドニアなどから来た人々だ。

ユーゴ内戦は一応終結しているものの、政情や経済が不安定な国もあり、将来に疑問を持つ人々は隣国のみならず、世界各地に移民する道を選ぶ人も多い。

彼らは直接的に発生した難民ではないかもしれないが、「長期的難民」あるいは「二次的難民」とは言えないだろうか?「より良い生活を目指す」という点では、難民も移民も我々が思うほどの大きな差はないのかもしれない。

2)次に、意識面で移民と難民には複雑な状況が存在しうる。知り合いのシリア人難民と話をしたときの話だ。インテリ層の彼にとって納得がいかないのは、オーストリア人が難民を十把一絡げにする態度である。

難民には低教育で貧しいイメージが付きまとうが、「難民にも(社会)階級がある」という言葉を聴いて、私は意識の変更に迫られた。確かに、難民といっても出身国、教育レベル、階級、宗教、経済的状況、国を逃れた理由は千差万別なはずだ。

移民と難民は違うかもしれない、しかし、難民一人ひとりもまた違うのだ。ちなみに、彼はキリスト教徒のシリア人である(本人は信仰心はないと公言するが・・・)。

一方、移民には留学生、海外赴任者、(長期)旅行者などが含まれる。しかし、彼らにどれほど移民としての意識があるのだろうか?

実際、私自身も移民ということになるが、ピンとこない。これはおそらく生活や経済的な改善のみを求めて移住してきたからではないからだと分析する。また、パートナーや結婚などが理由で「移住」した人も大勢いるだろう。

そして、自分のもつ移民のイメージもブルーカラーの低所得者移民に向いてしまいがちだ。

あえて弁明するならば、それがメディアによって作られたイメージであり、それに縛られてしまったということなのだろう。しかし、比較的裕福な人々のもつこのネガティブなイメージは同じくネガティブに捉えられる難民との区別を曖昧なものにしてしまう。

残念ながら我々の多くは、両者を同一視する傾向を持っていまいか?

彼らが来たのは、問題のある貧しい国。紛争がある野蛮な国。貧困や飢餓のある国。汚職や独裁政権がある国。権利が制限され、迫害がある国。・・・事実でもあるが、意識の問題でもある。

3)最後に、制度上の分類についてである。移民と難民を区別する最大の理由は受入国の義務にあろう。つまり、難民の受け入れとは無差別の経済的保障と法的権利の付与を意味する。これがジュネーブ条約の意義である。

条約の締結国は人道的見地から難民保護を約束するが、それには定義をきちんと定める必要があったわけである。さもなければ、ありとあらゆる移民を無償支援しなければならなくなる。

国に数百万人の移民を保護する義務はない。そのため、法に基づいた難民の定義(あるいは「基準」か「条件」といった方が正確かもしれない)が当事者の現実と一致するとは限らない。

さらに言えば、こうした国際定義があるにも関わらず、実際の法的施行者は各国の入国・移民管理局にゆだねられている。日本の難民申請成功率が他国に比べて低いのもこのダブル・スタンダードによるところが大きいと言われている。

また、難民指定が必ずしも最良の手段であるとも限らないことも考慮するべきだろう。欧州各国は難民の流入を抑制するため、「安全な国リスト」を作成している。

2016年にドイツがアルジェリア、モロッコ、チュニジアを安全国指定したが、指定国との合意がなければ強制送還は難しいという現実がある。難民指定されなかった人々が、受け入れ国内に留まって不法移民となる可能性もあり、難民制度というのも一筋縄ではいかない。

移民と難民の制度上の違いを認識することは大事なことである。しかし、みてきたように現実の両者の相違はより複雑なのではないだろうか。

その意味では、様々な含みをもたせた難民支援協会の難民解説により共感する。また、関連する他の名称が様々存在する。

例えば、国内に留まる「国内避難民」や、国籍をもたない「無国籍者」、庇護申請している人々を限定をして「庇護申請者」と呼ぶ。また、難民が一次避難した国から別の国へ避難する、第三国定住というプログラムなどもあり、より細かく分類する傾向がある。

すなわち21世紀の現代には、移民と難民は単純な二元論や内包関係ではなく、より流動的な捉えるべきなのではないだろうか。そして、難民・移民の再定義や、より細分化された分類、あるいは異なる視点からの分類も必要になっているのではないか。

ビザにだって、旅行、留学、就労、家族、スポーツ、アーティスト、教育、研修、医療、投資家など何十種類もの違いがあるように、移民や難民にももう少し多様性を認める時代になっているのかもしれない。

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