ショッピングモールより、まずは自動車、国道だ――ロードサイドの精神性について

一家に一台も自動車が無いのと、一家に一台の自動車があるのと、一人一台の自動車があるのでは、自動車が孕む精神性、自動車が個人に及ぼすエフェクトは全く違うのだから。

朝夕の国道沿いは、いつも渋滞している。とりわけ、地方都市と地方都市を結ぶ幹線道路はうんざりするほど車が溢れかえり、往復にかかる費用と労力は大都市圏の電車通勤に決してひけをとらない。

一頃、いつもの道路、いつもの交叉点で、私はプジョーのロゴをつけた軽自動車とすれ違った。フランスのプジョーが軽自動車を作っているわけがないのだが、その軽自動車にはプジョーのロゴがついている。見目形はどうみてもワゴンRなのだが。

国道沿い、いわゆるファスト風土を語る時、首都圏で暮らす人はショッピングモールにまず目を向けるようだ。あるいはユニクロ、ファッションセンターしまむら、ヤマダ電機といった店舗の看板に。確かにそれらは重要で、地方の暮らしを一変させた。けれども、そうした構築物の大前提になっているのは、どこまでも続く道路、そして自動車だ。モータリゼーションこそがショッピングモールをショッピングモールたらしめ、ロードサイドのネオンサインへのアクセシビリティを実現させた。ショッピングモールを語るためには自動車が語られなければならず、ロードサイドのアーキテクチャとメンタリティの醸成について考えるなら、店舗に目をつけるよりも先に、まず自動車に目をつけるのが筋じゃないかと思う*1。

■乗り物から考える、大都市圏の自由と国道沿いの自由

大都市圏では、自由な移動は電車や地下鉄やバスといった公共交通機関によって担保されている。そうした自由は中高生になるまでには身体に馴染み、自分の足で好きなところにいける感覚が所与のものになっていく。行き交う人々はほとんど相互干渉しないので、そうした移動が妨げられることもない。ウォークマンや携帯端末を使って、そうしたスタンドアロンな移動の自由にプライベートなセンスを与えることもできる。してみれば、あのアップルという会社は、大都市圏の自由移動についてまわるプライベートに洒落っ気あるセンスを売りつけて*2世界一になった、ということになる。

一方、地方に生まれた人間は、自動車免許が取れるまでは移動範囲がかなり制限される。自動車免許を取得するまで、地方の思春期は案外と狭い。徒歩や自転車で行ける範囲にショッピングモールがひとつでも建っていれば御の字で、駐車場の広いコンビニだけが中高時代の憩いの場、というケースさえ珍しくない。

対照的に、いったん自動車が手に入ると地方の行動範囲は一気に広がる。中古の軽自動車であっても、とにかく、自動車さえ手に入れてしまえばアスファルトの大海原をどこまでもどこまでも航海できるのだ。お気に入りの音楽をBGMに、日本の果てにだっていける――そういう事を、自動車を手に入れた地方の若者は一度は意識するだろうし、人によってはいつまでも意識し続ける。親や友人に頼み込んで自動車に乗せてもらうのと、自分でハンドルを握って好きな場所に運転するのでは、意味も感覚も全く違う。

大都市圏の若者の自由と、自動車を手に入れた地方の若者の自由。

これらは一見、同じもののようにみえる。

けれども幾つかの点ではやはり違っている。

まず、持ち運べるプライベートの範囲が違う。

電車や地下鉄で移動する人間が持ち運べるプライベートの範囲とは、衣服や鞄、モバイル機器ぐらいのもので、それらは自分自身が手で持って歩かなけばならない。必然的に、持ち運べるプライベートとは、鞄ひとつ、あるいはヘッドフォンの音量が聞き取れる範囲のものでしかない。

自動車で移動する人間のプライベートは、これとはスケールが違う。助手席、後部座席、トランク。めいっぱいプライベートが詰め込める。セダンが流行らなくなり、ワゴンやワンボックスカーが流行の昨今は、そうした持ち運べるプライベートの大容量化が進んでいる。お金さえかければ、DVDの鑑賞も、重低音を響かせた音楽も、思いのままだ。自分の部屋ごと移動しているようなものである。

このプライベート容量の違いの帰結として、私的空間と公的空間(あるいは世間)との感覚的境界も、大都市圏と地方、電車の日常と自動車の日常とではかなり違ってくる。

公共交通機関に依存する人間は、電車やバスのなかで自分の時間を過ごすといっても、彼らが持ち運ぶプライベートはたかがしれていて、特に通勤ラッシュの時間帯などは、プライベートの空間容量は著しく制限される。混み合う電車のなかで新聞を広げる際には気を配らなければならないし、ヘッドフォンの音量もあげすぎないように注意しなければならない。大都市圏の人間は、公的空間を押し合いへし合いしながら、手持ちのメディアに詰め込んだプライベートを覗きつつ、移動の自由を行使している。

対照的に、自動車で移動する人間は私的空間から一歩も出ることがない。冒頭で触れたように、地方の通勤ラッシュはそれはそれで物憂げなものではあるけれど、信号待ちをしている時、ドライバーは私的空間に包まれている。なぜなら自動車そのものがプライベートの塊だからだ。マイカーのなかで重低音を響かせても迷惑がられる心配は無いし、仮に迷惑がられたとしても、ひとっ走りすればノープロブレムだ。運転席から道行く誰かを罵倒しても、その声は届かない。電車のなかではセックスできないが、自動車のなかではカーセックスがある。自動車は私的空間だからだ。

想像するに、こういう「自動車=私的空間」というセンスがあればこそ、日本人のドライバーは、(例えばイタリア人やフランス人などに比べて)自分の車のボディに傷がつくことに神経質になるのではないか。多くの日本人にとって、自動車とは服と同じかそれ以上にプライベートなアイテムであり、拡大した自己イメージそのものではないか。だからこそ、萌えキャラクターの痛車に乗るという行為が痛車やキャラクターとの一体感をドライブする行為になり、デコトラを"転がす"ことで電飾国道船団の船長になりきれるのではないか。

話を戻す。電車や地下鉄やバスは、本当の意味で公共交通機関と呼び得る。対して、国道沿いに長く続くあのテールランプの列は、プライベートが、私的空間が列をつくっていると呼んだほうが適切だ。ファスト風土の道路は、実は私的空間なのだ――ドライバーは、玄関を出てから目的地まで、ずっとプライベートな時間と空間を過ごしている。

以上を踏まえたうえで、最寄り駅からの目線ではなく、駐車場からの目線で、あのショッピングモールを眺めてみよう。

ショッピングモールはプライベートだろうか、それともパブリックだろうか?

あの漂白された空間は、私的空間だろうか、公的空間(あるいは世間)だろうか?

地方のショッピングモールには、デートスポットとしての機能、ハレの場としての機能がある。そういう意味では、パブリックな性質を帯びていないわけではない。一方で、部屋着でショッピングモールを訪れる人は珍しくないし、自分の家とショッピングモールを勘違いしているような身振りは、国道沿いのドライバー達のスポイルされた運転と同様、それほど珍しくない。そして、現在のショッピングモールは、無人レジを使えば店員と視線すらかわすことなく買い物を済ませてしまえるのである。

最寄り駅から歩いてショッピングモールを訪れる人にとって、そこはパブリックな公共交通機関の延長線上に存在する、ソトの終着駅であり目的地だ。しかし、自宅やワンルームマンションからマイカーに乗り込み、幹線道路を辿ってショッピングモールを訪れる人にとって、そこはプライベートな自動車を運転して辿り着く、ウチの終着駅であり目的地だ。東京から地方のショッピングモールに訪れる人はいざ知らず、地方の日常生活のなかでショッピングモールを訪れる人、とりわけ若者は、圧倒的多数が後者としてのショッピングモールを体験するのは言うまでもない。

■「国道の長いトンネルを抜けるとショッピングモールであった。」

だから私は、ショッピングモールという構築物について考える際、ショッピングモール単体をまなざすのは甚だ片手落ちで、モータリゼーションとセットで、そして郊外居住空間とセットで考えるべきものではないかと思う。そしてショッピングモールに何が売られているのか・何が催されているのかに着眼するだけでなく、どうやってショッピングモールに辿り着くのか・どういう感覚を抱きながらで駐車場から店内に入っていくのかにも着眼が必要だろうと思う。

このあたり、『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』を著した三浦展さんは流石に心得たもので、自動車のもたらすエフェクトにかなりのページを割いている。また、山内マリコさんの短編小説集『ここは退屈迎えに来て』のなかにも、自動車を欲しいと思い立つ地方女性の話がある。国道沿いのライフスタイルを考えるにあたり、自動車と自動車がもたらすセンスはやはり避けて通れない。

最後に、都道府県ごとの自家用車の保有台数を図示しておく。 

大都市圏では一家に一台あるかないかの自動車が、ロードサイド王国では一人一台の必須アイテムになっている様子がみてとれる。

それにしても、このグラフは興味深い――大都市圏の自動車保有台数の少なさは当然としても、北陸や北関東の自動車保有率の高さはどうだ!対照的に、地方の末端に位置する高知県や長崎県の自動車保有率が下位なのはなぜか?このあたり、都道府県ごとの家屋敷地面積の統計や預金率の統計と見比べてみると何かがみえてくるかもしれないが、長くなってしまうのでやめておく。いずれにせよ、ファスト風土化やモータリゼーションが全国一律に進んでいるとはいっても、土地ごとの実態はかなり異なっているのだけは確かだ。

おそらく、自動車を巡る精神性もかなり違っているのだろう。一家に一台も自動車が無いのと、一家に一台の自動車があるのと、一人一台の自動車があるのでは、自動車が孕む精神性、自動車が個人に及ぼすエフェクトは全く違うのだから。

*1:それと同じぐらい重要なのは「家屋」だと思うが、それについてはまた後日

*2:もっと言えば、欲望をたきつけて

(※2013年10月3日の「シロクマの屑籠」より転載しました)

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