イオンに限らず、最近のショッピングモールは暖かい照明に充たされていて、空調も快適だ。あらゆる商品、あらゆるコンテンツ、あらゆるエンターテイメントが、たったひとつの空間に揃っている。広い駐車場、子どもやお年寄りに配慮したアメニティのお陰で、家族連れにも利便性が高い。実際、地方都市に住み、毎週のようにショッピングモールに通っていると、イオニストとまではいかなくても、それ無しの生活など想像できなくなってくる。
"イオンが撤退してしまったら、生活の質はどれぐらい低下するんだろう"
そんな事も考える。それぐらい便利なのだ。
県庁所在地ならまだしも、地方の町村部に住んでいる人間にとって、ショッピングモールは商品・コンテンツ・エンターテイメント・文化の一大集積地だ。首都圏の人達からみれば"型落ち"にみえるかもしれないテナントやサブカルショップとて、地方の町村部の人間からみれば圧倒的で、地元商店が束でかかってもかなわないぐらいレパートリーに富んでいる。地方には、こんなにモノは存在しなかったのだ!
この点において、ショッピングモールは地方と中央の格差を"是正"さえしている。90年代に入ってもまだツッパリがいたような田舎でさえ、今じゃヴィレッジヴァンガードで買い物し、スターバックス・ラテで一服できるようになった。地元商店にとって悪夢のような光景かもしれないが、消費者視点でいえば、こうした格差の"是正"は福音と言える。
■ イオンには暗がりと隙間が見あたらない
そんな、地方の暮らしに不可欠なショッピングモールを利用していると、時々、眩しすぎる、と感じることがある。あるいは"息苦しい"というか。眩しさや息苦しさの理由のひとつは、家族連れやカップルでいつも混雑し過ぎているせいもあるかもしれない。でも、それだけじゃない。天井が存在するせいか。いや、関西以西のアーケード街の感じともちょっと違う。
理由は色々だろうが、私は、ショッピングモールに隙間や"あそび"が少ないせいじゃないかと思っている。
ショッピングモールには暗がりが無い。どこも明るい照明で照らされている。付属のゲームコーナーも、かつてのゲーセンのような暗がりではなく、いわゆる"溜まり場"を彷彿とさせるようなところはどこにもない。
スペース的にも、無駄が無い。最近のショッピングモールは、曲面を多用することによって閉塞感やディストピア感を埋め合わせようとしているようにみえる。けれども、その通路のくねり具合すらわざとらしく、これが統計的根拠にもとづいた最適解の産物であると予感させるものがある。こちらのページで紹介されているように、むしろ、そういった設計自体が、顧客を――カモを――掴んで逃がさず、消化するためのカラクリのひとつではなかったか。
商品はどうか。最近のショッピングモールは、飽きさせない。売り場を変え、商品を買え、テナントを変える。彼岸や盆になればそれらしい商品が並ぶし、クリスマスにはドン・ペリニョンが、正月にはおせちがやって来る。ただ、こうした全てが大手企業の緻密な計算にもとづいた予定調和とは感じられる。なかには地元商店を誘致しているタイプのモールもあるけれど、基本的には、大きなモールで提供される商品には天の運行のごとき秩序が感じられる。統計的根拠にもとづいた最適解なんだろう。
だからどうしても、意外性、サプライズが感じにくい。先日、あるブログで以下のような文章を見かけた。
バブル期には「個性的な街」や「通り」があった。タワーレコードに行くついでに、そういう場所をほっつき歩くとか、その逆もできただろう。そういう多様なスポットや娯楽を紹介する手段として「ポパイ」や「ぴあ」といった雑誌が売れたはずだ。一方「チェーン店」だけが寄せ集められたイオンの中では、どのお客も機械的でおなじような店のめぐり方しかできないし、イオンの側もいかに儲けるようにと移動の導線を計算して仕掛けて店舗設計をしているものである。イオンの中にはライブハウスや芝居小屋のようなものもない。
イオン空間の中ではすべてが「想定の範囲内」のものしかないのだ。
「「ポパイ」や「ぴあ」に導線を計算されるのはどうなんだ」というツッコミ(*1)はさておき、「想定の範囲内」という着眼は同感だ。イオンをはじめ、ショッピングモールにはたくさんモノが並んでいて、商品やテナントの入れ替えもそれなりにある。けれども、緻密な計算にもとづいているからこそ――なにより巨大すぎるからこそ――意外性を含むもの、もっといえば、採算性の怪しげなもの・実験性の高いものが陳列される可能性は乏しくならざるを得ない。サブカルチャーを直接取り扱うようなテナントですら、そうだろう。
ショッピングモールには"ハズレ"が無い。あったとしても、すぐ撤去されて二度と戻って来ない。ということは"ハズレ"を引く残念さ、あるいは"ハズレ"と世間でみなされていても自分自身にとって"アタリ"とみなせるものに出会う確率も低い、ということでもある。
そうした"ハズレ"は、ある面では非効率の産物、一般受けしない何か、誰にとって価値があるのか不明瞭なものだ。贋物を掴むこともあるだろう。"ハズレ"の無さ、贋物の無さは、ショッピングモールの長所でもある。誰でも一定のクオリティの商品を確実に手に入れられる長所は、路地裏の商店には絶対に真似できないものだし、かけがえがないものだ。
ただ、そうした商品に包まれ、あまつさえプライベートな時間の過半を預けてしまい、消費や文化の寡占状態になってしまうことに、問題は無いものだろうか。そういった毎日の繰り返しは感性にどのような作用を及ぼし得るだろうか。
これがまだ、大都市圏の人間であれば、さほど気にする問題ではないのかもしれない。大都市圏には百貨店もあるし、わけのわからない路地裏の店舗がある。商店街だって生き残っている。だから、ショッピングモールで過ごす時間が寡占化してしまうことはないだろう。
同じく、地域社会が生き残っているエリアの人間、地元の歴史や文化といった(ショッピングモール的な商売感覚からすれば)剰余に包まれている人間にとっても、ショッピングモールの時間・消費・文化が寡占化してしまうことはないだろう。週末のイオンと平日の地元は比較され、地元では暗がりや隙間、理不尽にまだまだ曝されるだろうから。
では、大都市圏に所属せず、地域社会の残滓も感じられない、地方のニュータウンに住む人達においてはどうか。そうした人であっても、折に触れてショッピングモールの外を(*2)日常的に呼吸し、"アタリ"と"ハズレ"、明るさと暗さの間を往復運動しているのなら、問題無いだろう。しかし、そのような往復運動を基本的に欠いている人達はどうか?漂白されたニュータウンと学校とショッピングモールのなかで生育されたホムンクルスは、どのような感性を持ち、どのような夢をみるのだろうか?
■ 養鶏場からの逃走
ここまで書いたような話は杞憂で、ちょっと極論じみているのはわかっている。
考えすぎだということも。
ただ、私には、ショッピングモールが眩しすぎるのだ。あまりにも眩しすぎて、あまりにも行き届いているからこそ、計算というものを、作為というものを、想定せずにはいられなくなる。自分の意志で歩き、自分の意志で商品を選び、自分の欲求を充たすためにコンテンツを手に取っているつもりでも、この完璧に計算され尽くされた空間では、きっと導線のままに買い物し、計算どおりにコンテンツを手に取らされているに違いない――そういう想像が、普段以上に頭をよぎってしまうのだ。
その想像、いや妄想をかき消すためには、自分が自由な消費主体であるという感覚を取り戻さなければならない。このご時世、自由な消費主体であるというセンスも、これまた真贋の定まらない、定型的な願望といわれればそのとおりだろう。それでも、自分がショッピングモールで飼われるブロイラーではない、と信じるためには、相応に身体を動かし、計算と秩序の外側を呼吸してみるしかあるまい。若干の不安、多少の不便が頼りだ。ここは眩しすぎる。
*1:特に、黎明期を過ぎた「ポパイ」や「ぴあ」に
*2:あるいはショッピングモール的な空間の外を、と言い直すべきかもしれない
(※2013年11月4日の「シロクマの屑籠」より転載しました)