承認欲求の社会化レベルが問われている

前回示したように、承認欲求そのものを叩くことに意義は無い。だが、承認欲求の充たし方、承認欲求にモチベートされて行う行動には、是非や可否が伴う。つまり、承認欲求をモチベーションにすること自体はオーケーとしても、社会的に妥当な充たし方かどうか、年齢相応の水準で充たしたがっているかどうかは常に問題になる。承認欲求の社会化レベルが問われているのである。

前回示したように、承認欲求そのものを叩くことに意義は無い。だが、承認欲求の充たし方、承認欲求にモチベートされて行う行動には、是非や可否が伴う。

承認欲求が充たしたいからといって劇場型犯罪を犯して良いわけがない。

承認欲求が充たすために通勤電車のなかで楽器を弾く行為もまずいだろう。

承認欲求を充たしたい気持ちが嵩じて「ありのままの自分を全部受け止めて欲しい」と異性に望む人は、是非に関わらず、たぶんパートナーシップが長続きしない。

つまり、承認欲求をモチベーションにすること自体はオーケーとしても、社会的に妥当な充たし方かどうか、年齢相応の水準で充たしたがっているかどうかは常に問題になる。

承認欲求の社会化レベルが問われているのである。

■幼児~成人に求められる、承認欲求の社会化レベル

前回も述べたように、承認欲求は幼い時期から認められる、おそらく生得的な欲求だ。二歳~三歳の頃から承認欲求は認められ、老年期に達しても殆どの人はこの欲求を完全には手放さない。そこで、マズロー以外の発達論的視点を組み込みながら、年齢ごとに求められる承認欲求の社会化水準について以下に箇条書きしてみる。

・幼児期の承認欲求社会化レベル

家庭環境にもよるが、一般に、1~2歳頃の承認欲求は認められやすい。養育者にそれなりに愛されて育つ子どもは、はじめのうち、笑ったり、立って歩いたり、排便したりするだけでも承認され、褒められる。この時期の幼児には出来ることが少ないが、その数少ない出来ることを実行できると、たいてい褒められる。承認欲求の社会化レベルはゼロに近い。この時期の体験は、承認欲求をモチベーション源にしていく良い下地となる。

3歳を超える頃から、幼児の認知機能と行動半径は大幅に広がり、褒められることばかりでなく(やってはいけない事をやって)叱られたり、(できないことに挑戦して)落胆したりすることが増えてくる。それでもまだ、一般に、幼児にとって承認欲求を獲得することは難しいことではない――今まで出来なかったことが出来るたびに、たいていの養育者や保育師は評価してくれるし、少々の出しゃばりなら大目にみてもらえることが多い。

この時期に承認欲求に相当する欲求*1を充たして来なかった人は、自分がやりたい事をやって承認欲求を充たす、という心理的営為のノウハウ蓄積が欠落してしまう。「自分の欲求に従って行動する→褒められる に不慣れな子どもになってしまう」とでもいうか。そのような子どもは、褒めてもらいたい気持ちや認められたい気持ちに鍵をかけて、それでもとりあえずは成長し続けるが、褒められたい・認められたい欲求そのものの社会化はそこで止まってしまいがちで、自分が褒められるという事態・自分が褒められたいという欲求の高まりをモチベーション源として適切に行動するノウハウが蓄積しないまま年を取っていくことになる。

・学齢期の承認欲求社会化レベル

学校に通う頃から、年齢相応に社会化された承認欲求でなければ認めてもらいにくくなってくる。「お前は○年生なんだから、これぐらい出来るだろう」的要求は社会からも養育者や友人からも日に日に強まり、幼児期には大目に見て貰えたことが大目に見て貰えなくなってくる。人間、できるであろう選択肢が増えてくると、そのぶん承認されたり認められたりするためのハードルは高くなり、やったら叱られたり馬鹿にされたりする事が増えてくるのだ。

それでも、小学校が課してくる勉学の基礎レベルはまだそれほど高くなく、子どもとしての立場・子どもらしい外観などのおかげで、承認欲求を充たすために越えなければならないハードルもまだそんなに高くない。

ただし、世の中には、褒められることも認められることもないまま親のスパルタ教育を受け、しかも、同級生集団のなかでも認められたり褒められたりする機会が乏しい身上の子どもも存在する。幼児期同様、自分がやりたい行動や自分のために頑張った行動をロクに褒められず・認めてもらえずに育った子どもは、承認欲求をモチベーションとして自己成長していくやり方も、年齢相応に妥当な褒められ方も、なかなか身につけられない。ここでも承認欲求の社会化が遅延してしまい、「承認欲求に背を向けたまま、誰のために、何のために頑張っているのか分からないけれども頑張る」か、「こみあげてくる承認欲求に対して年齢相応の対処の仕方を身につけないまま」の状態に陥ってしまいやすい。

・思春期の承認欲求社会化レベル

思春期を迎えると、コミュニケーションは急速に複雑化し、大人社会のソレに近づいてくる。子ども時代と同じ身振りで褒められようと思っても、もう上手くいかない。第二次性徴によって自分自身の身体が急激に変貌してくることもあって、「子どもとしてのアイデンティティ」がほぼ白紙撤回された状態で思春期が始まる。このため、思春期前半に承認欲求をモチベーションの源として利用する際には、子ども時代とは違った新しいやり方で・白紙撤回されたアイデンティティの空洞を埋めるのに適した方法が求められやすい。

中二病は、白紙になったアイデンティティを埋め合わせるための背伸びとして典型的だ。しかし、独りよがりな中二病ではアイデンティティの仮組みには役立っても、承認欲求まで充たすことは難しい。だから中二病の学生はトライアンドエラーを積み重ねながら、自分自身のアイデンティティ仮組みと承認欲求充当を両立させる手段を見つけなければならず、実際、ほとんどの中二病学生はそのような辻褄合わせのノウハウを蓄積させていく。軌道に乗ってくると、生涯にわたって自分のアイデンティティの一部となるような技能・趣味・友人仲間の獲得と、承認欲求の充当もだいたい両立するようになり、そうやってアイデンティティが固まっていけば晴れて思春期のゴール......ということになる。

ここでも承認欲求の社会化レベルは問題になる。幼児期や学齢期に承認欲求をモチベーションにし続け、それなりに社会化レベルをあげている人は、わりと躓かずに承認欲求をモチベーション源として成長しやすい。思春期には(中二病も含めた)はみ出しは付き物だけど、そうしたはみ出しをもノウハウとしながら、承認欲求の充当と社会適応とのバランスを取っていける。

しかし、承認欲求をモチベーションにしたことがこれまで乏しかった人、「自分はいくら頑張っても褒めてもらえない空しいやつ」的な心境の人にとって、思春期の承認欲求問題は難しい。中二病に象徴されるように、この時期の承認欲求は突出しやすく、コントロールが難しい――今まで承認欲求をモチベーションにし慣れていない人は、自分自身の内面から沸きあがってくる認められたい・褒められたいという気持ちと、これまで自分がろくに褒められたことがないこと・褒められた喜びをモチベーションにしたことが無いということの板ばさみに遭ってしまいやすい。"褒められたくてもバカにされるかもしれない"......という範疇的な不安だけでなく、自分が褒められてしまう事態にうろたえてしまう人や、自分自身の心のなかにせり上がってくる(思春期特有の)衝き上げてくるような承認欲求が怖くなってしまう人もいる。

思春期以降は、勉強もスポーツも人間関係もどんどん高度化してくるため、誰かの言いなりになってモチベーションの欠如した学習を続けているだけでは、学力領域にせよ、趣味領域にせよ、ライバル達になかなか競り勝てなくなってくる。アイデンティティの獲得もまた、誰かの言いなりになっていては獲得が難しく、自分自身にモチベートされて選んだ事物だけが本物のアイデンティティとして定着しやすい*2。だから、自分自身の内にある承認欲求や所属欲求にモチベートされて*3、自発的に活動できない人は、きちんとした技能を身につけにくく、アイデンティティが拡散しやすいという嫌なオマケがついてくる。

そんなこんなで、承認欲求の社会化レベルはそれなり高めておくに越したことはないし、どういう形であれ、若者として・成人として年齢相応な社会化レベルへとさらに高めていくことが望ましい、と考えられる。幸い、思春期前半は誰であれ承認欲求のブレ幅が大きくなりやすい季節なので、それまで承認欲求の社会化レベルが低めだった人でも、トライアンドエラーについてまわるミスや過ちが許容されやすく目立ちにくい――つまり遅れを取り戻すための修練がやりやすい――とは思われる。自分自身のこなれていない承認欲求を否認することなく、認め、乗りこなしていくための意志や能力は必要かもしれないが。

■承認欲求は超克するものではない。洗練させていくものだ

このように、承認欲求とそれをモチベーションとした活動には、年齢相応のレベルというか、社会からの要請と折り合いをつけるための難易度みたいなものがあって、適切なレベルアップを果たした人は何歳になっても承認欲求をモチベーション源にしやすく、上手くレベルアップできなかった人は、その恩恵を受けられなかったり、承認欲求の充当形式が年齢不相応 or 社会的に認められ難い形式をとってしまったりしやすい。

だから、この記事を読んだ人は是非覚えておいて欲しい。

 「承認欲求には社会化レベルがある」と。

世間ではあまり論議されないけれど、認められたい気持ちや褒められたいモチベーションも、年齢相応にちゃんと熟練し、日頃から使ってあげていないと飛躍の原動力にならないのだ。

そして、そうした承認欲求の社会化レベルを上げていくためには、子ども時代~思春期のトライアンドエラーが必要で、そうしたトライアンドエラーに付き物の失敗やはみ出しに対して、あるていど寛容な情況が用意されているほうが望ましい。犯罪的な承認欲求の充たし方などは取り締まる必要はあるにせよ、一切の失敗を認めず、一切の逸脱を認めないような社会情況では、年少者が承認欲求の社会化レベルをあげていくのは難しくなってしまうだろう。

承認欲求がほとんどの人に生得的に存在する以上、それを超克しようとか、無くしてしまおうとか考えるのは、かなり難しい。それよりも、承認欲求の熟練度を少しでも高め、より社会化された、より穏当なかたちへと洗練させていくほうが、やりやすく、実りも大きかろう。自分自身のなかに眠る承認欲求を弾圧するのでもなく、檻の中で飼い殺しにするでもなく、放し飼いにしても大丈夫なように手懐けていくこと――それが肝心のように思われる*4。

今後の"連載"予定

第二回:承認欲求の社会化レベルが問われている(今回)

第三回:承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について

第四回:私達はどのように承認欲求と向き合うべきか

*1:私はコフートの自己心理学が好きなので、本当は、「鏡映自己対象体験」という語彙を使いたくなるが、今回は承認欲求という言葉で、表向きは通すことにする。

*2:ちなみに、誰かに強制されて身につけたアイデンティティは、自分自身のアイデンティティとしてではなく、強制した誰かのアイデンティティや勲章として掠め取られやすい

*3:ただし、先日も書いたように、所属欲求にモチベートされて技能習得を進めていく方法論はすっかり不人気になってしまった

*4:なお、この文章では、テクノロジーによって承認欲求の社会化プロセスが蒙っている変化については端折った。SNS依存やネット炎上などが示しているように、今日、承認欲求の社会化プロセスはテクノロジーによって大きな変化を受けている。そのあたりの今日的事情については、次回に。

(2014年1月13日の「シロクマの屑籠」より転載)

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