リンク先に書いてあるように「承認欲求や自己愛は人間の基本的な心理的欲求」であり、それそのものをバッシングするのは人間の基本的性質をバッシングするに等しい。ところが今日のインターネットでは、承認欲求という言葉が罵倒語としてしばしば用いられている。
どうして、承認欲求(笑)として叩かれてしまうのか?
承認欲求がバカにされる社会とはどういう社会で、その社会はどのような個人を生みだし得るのか?
このあたりについて、書き溜めてあった4つのブログ記事を順番にアップロードする。
承認欲求は、現代人の重要なモチベーション源
承認欲求という言葉は、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが使った言葉で、彼の欲求段階説のなかでは生理的欲求、安全欲求、所属欲求、自己実現欲求と並んで基本的な人間のモチベーションのひとつとして紹介されている。以下に、マズローの著書から【承認の欲求】について書かれたパートを抜粋する。
自尊心の欲求を充足することは、自信、有用性、強さ、能力、適切さなどの感情や、世の中で役に立ち必要とされるなどの感情をもたらす。しかし逆にこれらの欲求が妨害されると、劣等感、弱さ、無力感などの感情が生じる。これらの感情は、根底的失望か、さもなければ補償的・神経症的傾向を引き起こすことになる。重症の外傷神経症の研究を見れば、基本的自信がいかに必要であるか、それをもたない人間がいかに無力であるかを容易に理解することができるのである。
A.H.マズロー 著 小口忠彦 訳『人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』産業能率大学出版部刊、1987より抜粋(http://shirokumaice.tumblr.com/post/45888097032)
他人に認められたい・自尊心を充たしたい気持ちは、人間が生得的に備えている「馬を走らせるためのニンジン」みたいなもので、技能向上や切磋琢磨のためのモチベーションになり得るものだ。この承認欲求に相当するモチベーションが欠如している人、なんらかの理由で素直にモチベーション化できない人は、技能向上や切磋琢磨に駆り立ててくれるモチベーションが得られにくく、そのぶん、技能向上や競争に遅れやすくもなるだろう。
かつて日本社会では、マズローの分類でいえば所属欲求の重要性が高く、村社会への帰属であれ、日の丸企業への滅私奉公であれ、承認欲求に動機付けられない人でも、所属欲求に動機づけられて生きていれば大抵なんとかなっていた。技能習得に関しても、職人集団や師弟関係にしっかり所属し、忠誠をもって研鑽することが大切だった。
ところが、村社会は衰退し、日の丸企業に忠誠をもって働けばそれで良し......という時代は過去のものになってしまった。所属欲求をモチベーションとしてギルドや師匠筋に成長を牽引してもらうような、徒弟制度的な成長プロセスも下火になってしまったので、昔ほど所属欲求にモチベーションを依存するわけにはいかない。そうなると、勢い、個人単位で承認なり自尊感情なりを獲得する承認欲求サイドにモチベーションを頼らなければならないわけで、今日の成長モチベーションとして、承認欲求はきわめて重要な要素になっている。
だから、承認欲求を獲得する方法の拙劣を叩いている人はともかく、承認欲求というモチベーションそのものを叩いている人というのは、現代人の成長に必要不可欠に近いモチベーション源を否定しているようなものだ。
承認欲求は、幼い時期から認められる*1。二歳や三歳の子どもでさえ、養育者や周囲の年長者に認められることを望み、何かを達成し賞賛を浴びると、喜んだり照れ隠ししたりする。そしてますます勇んで課題に挑戦し、新しいことを身に付けていく。
小学生ぐらいになると、両親からの承認・賞賛のウエイトは減って、仲間集団やクラブ活動のなかでの承認・賞賛のウエイトが高まっていく。勉強にしろ、スポーツにしろ、少なからぬモチベーションが承認欲求によって動機づけられている*2。もちろん、承認欲求を一切充たさない、機械的学習を強いることも無理ではないが、モチベーションを欠いた状態での勉強やスポーツは身が入りにくく、突出した学習効率は望むべくもない。また、エリクソンの発達課題に照らして考えるなら、この時期にモチベーションの欠如した学習を強制され過ぎると、劣等感の強い「いくら頑張っても空しいだけの」人間になってしまいやすいと思われる。
思春期以降、アイデンティティ確立のためのモチベーションとしても、承認欲求は欠かすことができない。所属欲求をモチベーション源にした技能獲得が弱くなっている今、「認められたい」「褒められたい」という個人的モチベーションは、技能習得や切磋琢磨への導き手としてきわめて重要で、それを欠いている個人は、技能習得も切磋琢磨も達成しにくい。そして、技能も切磋琢磨も達成しにくい→アイデンティティ確立にも支障を来たしやすいということだから、そういう人物はアイデンティティ拡散状態に留まりやすい。
ただし、思春期のスタート時点では、「認められたい」「褒められたい」モチベーションばかりが先走りやすく、上手に認められるためのノウハウも足りていないので、承認欲求は空回りしてしまいがちだ――「中二病」は、その最たるものといえる。承認欲求が嘲笑の対象となっている事例をみていると、実際には、こうしたモチベーションとノウハウのアンバランス、方法論の稚拙さが嘲笑されていることが多いようにみえる。
しかし、誰もが最初から思春期相応のデリカシーを身に付けた状態で思春期に突入するわけではないので、行きすぎた承認欲求の発露・不器用な承認欲求の発露はなかなか避けられるものではない。それどころか、そういうトライアンドエラーは必要ですらあるかもしれない。今日、学生時代に「中二病」になることは、むしろ健全なプロセスだ。「中二病」が恥ずかしいと思える頃には、より社会化された承認欲求の充たし方を身に付けているだろう。
「承認欲求を愛せよ」
だから私は、承認欲求そのものを叩いている人はヤバいと思う。
承認欲求を認めない若者は、中二病をちゃんと経験し、文化祭や体育祭で馬鹿なことをやらかしてきた若者に比べると、たぶん、承認欲求をモチベーションとして・自分自身のために頑張ることがへたくそな可能性が高い。承認欲求を笑うのではなく、不器用な充たし方を嘲笑するだけなら、これはわからなくもないが、承認欲求そのものを否定してかかるような人物は、承認欲求という心のガソリンの効果を軽視しているか、モチベーション源としての使い方を心得ていない。
もちろん、今日日は失敗を恐れる必要や、誤った努力の持続を避ける必要もあるだろう。だからといって、モチベーションを軽視し、認められるために懸命になれる瞬間を度外視して構わないわけではあるまい。
もう若者ではない、バブル以前の日本社会で育った人が承認欲求を叩いていたとしても、これもこれで侘しい。彼らは所属欲求に頼って成長できた世代かもしれず、そのぶん、承認欲求についてまわりがちなスタンドプレー的要素が認めがたいかもしれない。だが、所属欲求だけにモチベーションを頼れる時代、"ご恩と奉公"をイノセントに信奉できた時代は過去のものだ。もう通用しなくなったモチベーションの文法で承認欲求を叩いたところで、相互不信を膨らませるだけでしかない。
だから私は、承認欲求という言葉を、考えもなしに罵倒語として用いる人というのは、若いなら若いなりに、年を取っているなら年を取っているなりに「残念」と感じる。人間を飛躍させる原動力になり得るモチベーションを、リスクばかりにとらわれて否定すること、現代という時代に即して評価できないこと、どちらも建設的なことではあるまい。承認欲求の存在*3や今日的意義を認めたうえで、いかにそのモチベーションを運用するのか、どのような目標に向かってモチベーションを転がしていくのかを考えたほうが良いだろう。
承認欲求そのものを叩いてもはじまらない。
良きにつけ悪しきにつけ、承認欲求は人間を動かし、社会をも動かし続ける。
だから私は、承認欲求をひとまず愛したうえで、その「方法論」を検討するのが適当だと思う。
今後の"連載"予定
※多忙につき、今月いっぱいかけて、少しずつ在庫放出する予定です。
第一回:承認欲求そのものを叩いている人は「残念」(今回)
第二回:承認欲求の社会化レベルが問われている
第三回:承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について
第四回:私達はどのように承認欲求と向き合うべきか
付録1:ネットで「承認欲求」が語られるようになっていった歴史
付録2:私がネットで「承認欲求」を使おうと決めた背景
*1:マズローは、成人のモチベーションを整理した点は良かったと思うけれど、『人間性の心理学』には、承認欲求なり所属欲求なりの幼児期~成人期までの成長について、しっかりとした記述が見当たらない。このあたりについては、現代の進化心理学方面、自己心理学、同時代の自我心理学の著者やエリクソンなどに比べて見劣りする。だから、子ども時代の成長と承認欲求の関連について説明しようとすると、マズロー自身の言葉だけでは足りず、マズロー以外の著者の言葉を借りてこなければならなくなってしまう。なので、この記事では、同時代のエリクソンの言葉を借りながら、子どもの成長過程における承認欲求の役割と課題について記述する。
*2:注:この時期の所属欲求も大切。
*3:本当は、より正確な表現を心がけて「承認欲求というモデルで表現されるような、生得的な動機付けメカニズムの存在」となるが、あまりにも長ったらしいので、やめておく
(2014年1月9日の「シロクマの屑籠」より転載)