google検索の神様は誰を贔屓して、誰を見放すのか

Rootportさんは、テクノロジーの進歩・事物の明るい部分をブログに書かれることが多くて、それは好ましい性質だといつも思う。『デマこいてんじゃねぇ!』が、進歩の哀しい部分、獲得の代償、置いていかれる人々のことをブログの主題に据えるのは、なんだか似合わない。キャラクターじゃないと思う。

Rootportさんは、テクノロジーの進歩・事物の明るい部分をブログに書かれることが多くて、それは好ましい性質だといつも思う。『デマこいてんじゃねぇ!』が、進歩の哀しい部分、獲得の代償、置いていかれる人々のことをブログの主題に据えるのは、なんだか似合わない。キャラクターじゃないと思う。

それを踏まえて上記リンク先を読むと、結構気分が良いというか、三世代ほどすればこうなって来るのかな、という期待は持てる。その頃にはgoogle検索的なものがじゅうぶん社会に浸透して、その恩恵はネットジャンキーや"お坊ちゃんお嬢ちゃん"だけのものではなくなっているだろう。そこは、論旨どおりの希望を持っておいて良いと思う。

ただ、今のインターネット、今のgoogle検索の状況をみると、そこに辿り着くまでの道程は過酷のように思える。

そもそもインターネットは、人間が賢くなるために使われるより、人間が己の執着や欲望をみたすためのはけ口として広がった。そりゃあ研究者の人とかギークは別だったかもしれないけれど、一般的なネットユーザーはそのようにインターネットに漕ぎ出した。あたかも、ビデオデッキを普及させる推進力の少なからぬ割合が、エロで占められていたように。

で、ネット検索の現在、である。

google検索は既に立派なものが用意されている。しかし、この検索をきちんとしたワードで使いこなすユーザーはあまり多くない。ググレカスという言葉は、既にそれ自体がネットリテラシー・情報リテラシーが一定水準以上の人にしか響かない言葉で、本当にわかっていない人は、そんなに上手にはググれない。もちろん、ググレカスという言葉を知っている人は相応の水準でググるから、そのような層にとって、ググレカスという言葉はよく響く。しかしyahooでしかインターネットを検索しない人には「ググレカス?」となるわけだ。

もうひとつ。インターネットに流通する情報やパーマリンクがどのようなものか、という問題がある。

ネットに流通する情報量は、人々の欲望に拠っていて、google検索は(おおむね)多数決の様相を呈している。だから、人々の叡知に貢献するような情報を流通させるよりも、人々の欲望に適う情報を流通させる性質のほうが強い。

試みに、googleで「愛宕」と検索してみて欲しい。

日頃のgoogle検索の使い込み度合いにもよるが、今だったら『艦これ』関係の情報が上位にやって来るだろう*1。もし、googleが叡知に貢献するとして、『艦これ』の情報は重要だろうか?そうではあるまい。日本語圏のgoogle検索で欲望の多数決が行われた結果として、「愛宕」は二次元美少女の海に沈んでいった。日本のインターネットは、昔からだいたいこんな調子だ。

このような状況にくわえ、パーソナライゼーションの問題などを考えるにつけても、現行のgoogle検索は、欲望ダダ漏れなユーザーを賢くするために特別役立つようには思えない。そしてインターネットやgoogle検索が登場したことによって、ますますもって知識を蓄積すること以上に、適切な問いを立てることが重要になってしまったが、この、適切な問いを立てるという行為そのものはスタンドアロンな自習だけでは難しい。ここには、文化資本問題をはじめ、オフラインの重力が強く働くと思ってかかったほうが良いだろう。

つまり、そこらの高校生にgoogle検索を与えただけでは、「エロ」「無修正」「無料」と検索するのが関の山じゃないか、と問いたいわけだ。

■「ならば、今すぐネットユーザーすべてに叡知を授けてみせろ」

それでももし、インターネットやgoogle検索が人を賢くするとしたら、例えば、「賢明なネット検索によって個人間競争に勝ちやすくなる」と広く一般に知られるようになった段階だと思う。これは、現在よりもネット検索の有用性が広く知られ、多くの人に評価されている状況でなければならない。それこそ、学習塾でもgoogle検索の練習が必須になるぐらいの水準だ。

ここまで来れば、人々は否応なくgoogle検索を駆使して賢くならなければならなくなる。ネットでエロなんて漁っている暇が無いぐらい、ネット検索を介した情報収集と学習によって差がつく世の中が到来すれば、人々は、欲望という名のいつものモチベーションによって導かれ、google検索を賢く使いこなそうと努力するだろう。

ところが、現実のインターネットはといえば、多くの人々はPCよりもスマホを求め、WWWとは切り離されたアプリの世界が台頭しつつある。WWWを切実に求めている人は少数派だった。仲間とお喋りが出来て、暇つぶしのゲームが出来て、エロやゴシップが読めて、楽天市場が使えて――たいていの人はそれで良かったのである。

こうした現状を思うにつけても、私は『ガンダム 逆襲のシャア』の台詞を思い出してしまう。

シャア 「インターネットは、人間のエゴ全部は飲み込めやしない」

アムロ 「googleの知恵はそんなもんだって乗り越えられる」

シャア 「...ならば、今すぐネットユーザーすべてに叡知を授けてみせろ!」

現状は、梅田望夫さんが希望として語ったような叡知からは遠ざかっていると思う。まあ、インターネットが欲望によって流れている現況そのものは、世間を反映していて学び甲斐のある風景になっているけれども、それはさておき、google先生がディスプレイから飛び出してきて「お前、そんなくだらねーもん検索してんじゃねーよ」と言ってくれない以上、エゴと欲望にまみれたインターネットは、これからも眼前にあり続けるのではないかと思う。

■ ただし、二百年後はわからない

とはいうものの、こういう事が200年ほど続けば、さすがに状況は変わってくると思われる。google検索を使いこなす人間と、そのノウハウを受け継いだ人々は恩恵に与り続ける。そうではなく、エロとゴシップだけを検索し続けた人間は、そうした恩恵から見放され続ける。そうした違いは、たかだか1~2年程度ではクッキリして来ないかもしれないけれども、数十年単位となれば甚大な差を生み、いまや限り無く世襲制に近くなった文化資本の一部となって後代に受け継がれていくだろう。

尤もこれは、google検索によって差が云々というより、google検索に象徴されるような諸々によって差が云々、という話かもしれないけれども。

世代を重ねた競争の結果が蓄積すれば、それなり人類は賢くなるんじゃないのかな、とは思う。競争の帰結として。ただし、競争のプロセスで繰り広げられる風景がどういうものなのか、誰がgoogle検索の神様に愛され、誰がgoogle検索の神様から見放されるのか、ある程度の想像は働かせておいてもいいんじゃないかな、とも思う。

イノベーションには、喜びと同じぐらい、哀しみもついてまわるものだから。

*1:画像検索すると、もっとはっきりする

(2014年2月16日「シロクマの屑籠」から転載)

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