リンク先は、女性がキャリアを重ねながら家庭を大切にする困難さが伝わってくる、良い記事だと思った。
将来の子育てを意識する女性が、総合職より一般職を選びたくなる気持ちも伝わってくるし、こんな状況では、「働く女性」と「子育てする母親」を両立させるのはいかにも困難だろう。
「働く女性」と「子育てする母親」の両立が困難ということは、おそらく、この国の少子化傾向に歯止めがかからないということでもある。「働く女性」の社会参加を良しとし、「専業主婦」を減らしたいとする考え方に基づけば、そういうことになろう。
さておき、一人の男性・父親として、こういう記事を見かけるたびに、私も何かを叫びたくなる。
なぜなら、「働く女性」と「子育てする母親」の両立困難については、オンラインでもオフラインでも頻繁に問題としてクローズアップされるが、「働く男性」と「子育てする父親」の両立困難については、それほどには見かけないからだ。
「働く女性」と「子育てする母親」の両立困難に比べれば、「働く男性」と「子育てする父親」の両立困難は、問題としてクローズアップされにくいようである。それが私には、歯がゆくてならないのだ。
「子どもを犠牲にしたくない」と思っている父親が直面している現実
家庭とキャリアの板挟みにあっているのは、女性ばかりとは限らない。男性も、子育ての当事者である。子育てにコミットしたい・家庭にもっと軸足を置きたいと思っている男性はたくさんいる。
イケアジャパンが2013年に行った「子どもとの生活に関する意識調査」によれば、母親に比べて父親のほうが、子どもと過ごせる時間が少なく、子どもと過ごす時間が足りていないと感じているという。
厚生労働省『21世紀出生児縦断調査』第5回調査でも、それらを裏付ける結果が報告されている。
父親が子どもと過ごす時間は母親に比べて短く、平日ではその差が著しい。しかも、以前の調査と比べて、平日に父親が子どもと過ごす時間は漸減傾向にあるという。こんな状況では、父親が家庭を大切にしたいと思っていても、コミットできる程度は低いと考えざるを得ない。
世の女性や母親が、子育てとキャリアの板挟みになっているのと同じく、
世の男性や父親も、キャリアと子育ての板挟みになっているのに、
どうして前者ばかりがクローズアップされてしまうのだろうか?
冒頭リンク先には、聖心女子大の大槻奈巳教授による以下のようなコメントが掲載されている。
「中央大学の山田昌弘先生がご指摘されていますが、ご飯を作るとか、洗濯をするといった家事労働は、女性の家族への『愛情表現』であると見なされてきました。愛しているなら一生懸命やるべきだと。その役割をきちんと果たしているかどうかが女性としての評価にもつながっています。そして、女性が仕事をしていても、期待される役割は変わらないんです。一方で、『仕事をして高収入を得る』のは男性の役割とされ、それを女性が果たしても、男性ほどには評価してもらえない。そういう意識構造が、若い女性たちの中でも変わっていないんだと思います」
この文章を、一人の男性として・父親として読んだ私は、男性だって同じじゃないか! と思わずにはいられなかった。
女性とは正反対の構図で、男性側は、『仕事をして高収入を得る』べきだとみなされ、その役割をどれだけ果たしているかによって男性としての値打ちが評価される。他方で、男性の家族への『愛情表現』は、女性ほどには評価してもらえない。イクメンという言葉が暗に示しているように、父親の子育て参加は、母親のサポートという水準が期待されているのであって、主体的な父親の子育て参加は、まだまだ評価もされていないし、真面目に考えられてもいない。そんなものに値打ちは無いと思っている人も多い。
家庭と仕事を巡る意識構造が変わっていないという点では、男性/父親側も同じだし、これも、声を上げて変えていかなければならないもののはずだ。というか、少しでも変わって欲しいから、私はブログにこんなことを書いている。
インターネットには早とちりな人も多いので断っておくが、私は、冒頭リンク先の記事を批判したいわけではない。20代女性のワークライフバランスは大きな問題だし、それについて識者が意見を述べるのも大切なことだ。そのあたりについて、とやかく言う筋合いは無い。
しかし、女性のワークライフバランスがクローズアップされるのを見ていると、私は願わずにはいられないのだ。
男性のワークライフバランスだって、大きな問題としてもっとクローズアップされたっていいじゃないか! 専ら仕事と年収で評価され続けて、そのような目線で値踏みされ続ける男性に対する意識構造も、いい加減、問題にされてもいいんじゃないか! と。
今日の婚活状況を耳にするにつけても、男性は、いまだ仕事と年収でもって評価される度合いが高いし、世間の老若男女のほとんどは、そのことに疑問すら抱いていない。家事と子育てだけで女性を評価する意識が問題だというのなら、男性を仕事と年収だけで評価する意識も同じように問題とみなされて、男性が家事や子育てに対して"開放"されなければおかしいんじゃないだろうか。いや、おかしいでしょう?
誰が家庭を犠牲にしたいなどと思っていようか
いまどき、わざわざ結婚して、わざわざ子どもをもうける父親の大半は、子どものことを邪険にしたいとは思っていないと思う。母親と同じぐらい子育てに関わりたい、子どもと時間を過ごしたい、子どもに技能や勉強を授けたいと思っている父親が、たくさんいるはずだ。
だというのに、現実の父親はといえば、仕事で評価を得るために、とにかく働き続けざるを得ない。
年収が高い男性のほうが婚姻率が高いというが、一般に、年収が高い男性のほうが、出張や単身赴任といった、上級ホワイトカラー的な働き方を余儀なくされて、子育てには参加しにくい。ほんらい、子育てに対して最もセンシティブな意識をもっているであろう彼らが、子育てのチャンスから疎外されて、家庭の時間を大事にできないのは、痛ましいことである。
あるいは、なかなか増えない年収を補うために、子どもを塾や私立学校に出すために、とにかくも働いて金を稼ぐしかなくて、子育てに参加できない父親も多い。その結果、さんざん苦労して働いているのに、妻や子どもと疎遠になってしまって、悲しい思いをしている父親だっている。あまりにも痛ましいことである。
家庭とキャリアの板挟みに悩んでいるのは、母親だけではない。
父親だって、悩んでいるのだ。
多くの父親もまた、「子どもを犠牲にしたくない」し、「妻を犠牲にしたくない」と思いながら、それでも夜遅くまで働き続けている。それがさも当たり前のようになっている意識構造には、風穴が開けられてしかるべきだろう。