「良い大学に行きたければ、恵まれた家庭に生まれなさい」――成人の自由にもとづく新しい"世襲制"

形式としては子どもの自由な学業選択は成立しているが、実情としては、生まれた家庭の環境によって大きなハンディやボーナスがつくようになっていて、個人の努力で覆すのは大変難しい。
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 釣りっぽいタイトルだけど、実際、そうなってきている。形式としては子どもの自由な学業選択は成立しているが、実情としては、生まれた家庭の環境によって大きなハンディやボーナスがつくようになっていて、個人の努力で覆すのは大変難しい。そのさまは、さながら新システムの"世襲制"のようだ。

■子ども自身の努力で、どこまで"這い上がれる"のか

 戦前の日本では、子どもの進路や学歴は限りなく運命に近かった。身分・家庭環境・経済事情・性別・きょうだいの出生順といったものによって、入れる学校や選べる進路が決まっていた。そうした運命に抗らうためには、ずば抜けた素養と、なによりも幸運が必要だった。

 戦後はこれが緩和されていった――家庭環境や経済的問題は依然として大きかったが、高校進学率は向上し、やがて大学進学率も高くなっていった。そうした状況下で私立大学や受験産業がマンモス化していったけれども、それらを飛び越え、地方の一般的な家庭で生まれ育った子どもが旧帝大や早慶に飛び込むようなケースもそれほど珍しくなかった。

 私が高校生だった1990年前後の近所の様子を思い出しても、地元の魚屋や美容院の子どもが(特に塾に行ったわけでもなく)東大や京大に入学するケースはざらにあったし、荒れた家庭で育った子どもも同様だった。親の話によれば1960年代も似たり寄ったりだったらしい。いわゆる"頭の出来が違う"子どもは、相当に劣悪な家庭環境でない限り、高く遠くに進学していった。

 最近はどうなのか? 私は、そういう話を間近で聞くことが無い――私がそういう話を聞かなくなったのは、地元一円の噂話が流通する地域社会を離れ、都市郊外のライフスタイルに染まってしまったからだろう。統計的にはどうか。

作者: 苅谷剛彦

出版社/メーカー: 朝日新聞出版

発売日: 2012/08/07

作者: 志水宏吉

出版社/メーカー: 亜紀書房

発売日: 2014/04/09

 これらの書籍を読む限りでは、子ども自身の努力以外の家庭的要素――核家族の経済資本、文化資本、社会関係資本――の相関が強くなっているようにみえる。親の経済資本が決定的要素なわけではない。親の文化資本がクリティカルなわけでもない。親の「つながり格差」で全てが決まるわけでもない。しかし、これらのいずれか(または複数)に恵まれた家庭と全てに恵まれない家庭の子どもでは、進路可能性も勉強の効率性も、社会適応のためのノウハウ獲得もまったく違う。

 かつての子育てとは異なり、今日の子育ては親の教育方針を極限まで尊重している。親が自由に教育をデザインできるとも言える。だから、教育ノウハウに富んだ家庭・金銭によって購うべきを購える家庭の子どもは、その自由を最大限に享受できるようになった。

 しかし、同じことを反対側から言い直すと、親が教育を自由にデザインしなければならず、親の教育ノウハウの巧拙がストレートに反映されやすくなった、ということでもある。教育ノウハウの乏しい家庭・金銭によって贖うべきを購えない家庭の子どもは、そのハンディを躱しづらい。

 差がつくのは教育ノウハウだけではない。生活習慣・情緒的安定性・金銭管理といった、勉強や努力効率の根底に関わるファクターも、親から子へと世襲されやすい。

 子育てが、地域社会的で集団的なものから核家族的でプライベートなものへと変貌し、親の自由選択(と自己責任)を最大限に尊重したからこそ、生活習慣をはじめとする文化資本は(昭和の後半などに比べれば)忠実に親から子へとコピーされやすくなった。孤立した核家族、親の唯我独尊傾向が強い核家族ではこうした傾向に拍車がかかりやすく、子どもには親以外のロールモデルを手本にするチャンスが乏しい――少なくとも、親以外の年長者がロールモデルとして複数名つねに視界に入っているような生育環境で育つのに比べると、ロールモデルとしての親のインストール比率は高くなりやすい。

 具体的に例示すると、親が努力を知らず教育ノウハウも持たず生活習慣もグダグダな核家族の子どもは、簡単には努力を身に付けられないし、勉強の仕方もわかりにくいし、まともな生活習慣をインストールしにくいなかで育っていかなければならない、ということだ。誰しも、生きるために必死になることはできよう。だが、その際に活用できる経済/文化/社会関係資本の差はいかんともしがたい。

 核家族の子育てが徹底的に自由化され、その核家族の自由な子育てが(児童相談所に目をつけられるような水準でない限り)尊重されている現行システム下では、これは、起こるべくして起こっていることだ(良し悪しは別として)。

 こう言い換えることもできるかもしれない。

 「親の子育ての自由は尊重されている。だからこそ、核家族の子どもはほとんど運命的な親の采配のもとで育たなければならない」、と。

 核家族を前提とした今日の社会システムは、親世代にはおしなべて最大限の自由(と最大限の自己責任)を約束するものだった一方で、子ども世代にとっては、家庭という桎梏から逃れる余地、家庭の外のロールモデルを呼吸する可能性を狭めるものでもあった。子どもに与うるべき全てを親が選択できるからこそ、親が選んだものばかりが子どもに反映されてしまう。

 このような社会システムのなかで、最大の恩恵を蒙るのはどのような家庭の子ども(と親)で、最大のペナルティを蒙るのはどのような家庭の子ども(と親)だろうか?

 もちろん、恵まれた家庭で育った子どもが恵まれない顛末に辿り付く可能性は十分あり得るわけで、これはあまり厳密な話ではない。とはいっても、経済/文化/社会関係資本のいずれにも恵まれない家庭の子どもが努力を重ねてアチーブメントに辿り付くためには、一時期以上に素養や運に恵まれなければならない。子どもは誰しも、自分の"手札"をやりくりしながら育っていかなければならないけれども、ただでさえ親子は遺伝子を受け継ぐのだから、社会環境的な要素までもが世襲しやすくなってしまえば、本当に、どこまでも、世襲に近くなってしまう。

■「どうやって核家族の外を"呼吸する"か」

 なら、子ども自身(と、その子どもの養育者たる親)に、こうした構造を打開する余地はあるだろうか。マクロな社会全体での解決案は、よくわからない。しかし、ミクロな個人単位では、解決案......とまではいかなくても隙間を探す余地はあると思う。

 かつての世襲制がイエや身分の論理に基づいていたのに対し、21世紀の"世襲制"は自由と個人主義社会の(成人の)論理に基づいている。イエや身分といった外側の論理に束縛されるのでなく、核家族の内側に由来した限界が世代間伝達を束縛するのだから、それを撤廃してやれば良い――少なくとも理屈のうえではそうなる。

 もっと言うと、親が良しとする価値観や手札だけを頑なに信奉し、それに見合ったものばかり子どもにインストールしようとするのでなく、親以外の人間の価値観や手札もそれなり尊重し、子どもがそれらを身に付けるチャンスを無暗に妨げないことではないか。

 その際、親が社会関係資本に恵まれていれば、複数のロールモデルに子どもが接触する機会をもうけやすいかもしれない。子どもは、親の"やりかた"以外にもいろいろな生き方があり、処世術があり、方法論があることを、親以外の年長者から学び取ることができる。もし、親が教え説くとおりの生き方が難しそうになったら、親以外から見知った選択肢を強調していくことだってできる。これは、昔の地域社会の平均的な子どもなら多かれ少なかれ自然とやっていたことだが、現代社会でも、親以外の年長者との接点がそれなりにあって彼らにも一目置くようなコンテキストができあがっているなら、十分可能性がある。子どもの潜在的手札の多様性は、親だけからインストールされるよりも豊かになるだろう。

 親の社会関係資本が不十分な場合でも、可能性が無いわけではない。ある程度信任の置ける年長者――学校の教師など――の教育ノウハウや価値観や生活習慣に一目置き、子どもがそこから学んでくるものを尊重できれば、子どものロールモデルは核家族の外側に拡大する。核家族内では授けきれないロールモデルを外部に求めるなら、せめて、子どもが外部から学び取ってくることを妨げず、親が唯我独尊に陥らないような姿勢が必要だ。この場合、子どもが外から吸収してくる(親からみて未知の)エッセンスを親がどこまで禁止しどこまで許容するのかが、難しいポイントになってくる。

 "いわゆる豊かな核家族"にも、この話はある程度当てはまる。親の価値観や教育ノウハウだけをインストールし続けるのに比べれば、親以外の価値観や教育ノウハウをよそからも貰ってきて、ロールモデル選択の手札が多い子どものほうが、多様な可能性や方法論のなかから suitable な"やりかた"を選び育むことができる。どんなに優れた親元に生まれたとしても――いや逆だ、優れ過ぎた親元に生まれた子どもにこそ――親とは異なった価値観や教育ノウハウが必要になりやすい。親の猿真似をしたって劣化コピーにすらなれないような場合は、子どもは、核家族の外から仕入れてきたノウハウ無しには心理的にも社会的にも生き残りにくく、自分自身のための技能習得に四苦八苦することになりかねない。

 だから、この話は現代の都市や郊外のライフスタイルに馴染んでいる人の殆どにとって他人事ではない。養育者と核家族の自由が徹底されているからこそ、その子ども世代において選択可能なロールモデルの選択肢がかえって狭くなり得るパラドクス。このパラドクスのもとで未来の世代が育まれている以上、近未来の精神、近未来の思想もまたそれを反映したものになるのだろう。あるいは既に、そうなりかけているのかもしれない。

*2:このうち、情緒的な要素は遺伝的素因の関与がとても大きい。しかし、その遺伝的素因の取り扱い方や世間への慣らし方、つまり社会化の次元においては環境因が無視できず、親が適切な社会化の手順を知悉しているか否かが案外と無視できない。

*3:親の不安が非常に強い場合には禁止が先行しやすく、これが成立しにくくなる。それと、子どもをどこまで信頼しているのか。

*4:ロスジェネ世代などをみてもわかるとおり、この"劣化コピーにすらなれない問題"は、才能だけによらず時代背景の移り変わりに起因した問題を含んでいるため、子どもが十分優秀でも親の代の処世術に束縛されれば十分に起こり得るものだった

(2015年1月8日「シロクマの屑籠」より転載)

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