読みました。中年期危機は、病名ではなく状態、またはひとつのパターンを指す語彙で、「五月病」「引きこもり」などに近いカテゴリと考えます。
だから、中年期危機がうつ病に該当することもあれば、該当しないこともあります。精神科を受診するような問題にはならず、本人の社会的な立場だけがが変わることもあるでしょう。
中年期危機が精神科に関わるかたちで観測されやすいのは、
1.これまでの生き方と、それに関連したアイデンティティが持続困難な状況に直面して、メンタルがやられたり混乱したりする。たとえば、子育てに熱心な主婦が子どもの巣立ちをきっかけにうつ病になった、など。個人的には、初老期うつ病・退行期うつ病といった、より高齢でみられるうつ病に似ているところがあるように思います。
2.今までのアイデンティティ選択がもともと納得ずくではなかったが、どうにか自分を保っていた人が、残された時間が少ないと感じて、一念発起して大失敗して、二次的にメンタルをやられる。たとえば、脱サラや不倫などで人生が大爆発して、二次的にメンタルもやられた人が受診。
といったものでしょうか。
俺は、自分の中二病を腹の中に飼っている
さて、中年期危機の話はここらでやめて、おじさん・おばさんの内面に眠る思春期心性について、ちょっと。
四十代にもなればアイデンティティも身のこなしも落ち着いてきますし、基本的に、それは良いことだと私は思っています。
じゃあ、たとえば私が思春期心性を捨てて中年になったのかというと……そうでもないような気がするのです。
私は腹の中に思春期を飼っているつもりでいます。
そいつは、長年の経験によってだいぶ円くなっているし、なにより、社会適応の外殻によって外界との接触を制限されています。
だから、私が二十代のようにメディアクリエイターを名乗ったり、全世界に向かって勝利宣言をしたりすることはあまりありません。
流行に囚われることも無いでしょう。そうです、私は年を取り、若干の社会性を身に付けたのです。
しかし、私を衝き動かすパトスのある部分は、思春期的な、それか、もっと遡って幼児期的なものに依っているんじゃないかと思わなくもありません。
私は好奇心や稚気の強い人間です。
モノ書き見習いとして、あるいはブロガーとして、あるいは精神科医として、私は自分がやりたいことに向かってロケットファンタジーしているつもりです。
その、ロケットファンタジーを支えているパトスがどこに由来しているかというと、社会適応の外殻でも、年齢相応の社会性でもないように思えるのです。
もし、私のパトスが、社会適応の外殻や年齢相応の社会性に由来しているとしたら、たぶん私はブログを書くのをもっと早くにやめているでしょうし、モノ書き見習いも、3冊ぐらい単著を出したところで満足するか不満足するかして、やめていたんじゃないでしょうか。
社会適応の外殻や年齢相応の社会性の観点からみると、ブログを書いたり書籍を書いたりして得られるメリットって、私の世代の精神科医には少ないと考えざるをえません。
ところが、私はブログが書きたくてしようがないのですよ!
書籍にトライし続けるのも、ちょっと、思うところがあってのことです。
このあたり、ただ社会に適応して生きたいだけなら、本当に無駄です。
でも、その無駄を牽引しているのは、好奇心や稚気のたぐいであり、小二病や中二病や高二病のたぐいであり、つまり、私の腹の中に蠢いている思春期心性や子ども心なのです。
でもって、無軌道な若者のブログ運営を眺めたり、twitterで一回り以上年が若い人から刺激を受けたりすると、私の腹の中で思春期心性がザワザワとざわめきます。
これは、転移に類する現象かもしれません。ともあれ、それで十分なんです。心が暖まって、エネルギーを分けてもらえます。で、「俺は俺で、社会適応の外殻と阿吽の呼吸をとりながら、生きていこう」と思うことができる。これは、ありがたいことです。
オフラインでもそうです。子どもや学生さんに接する時、彼らのガイアの輝きが私の腹の中の思春期心性や子ども心とシンクロして、パワーアップしている気がします。
年下の人達が好奇心や稚気を発揮している時や、何かに夢中になっている時に、私自身に共鳴するところがあって、エネルギーが注入されるのです。これも、ありがたいことです。
「思春期以前を捨てるのでなく、社会適応の外殻ができる」という考え方
「成熟」「大人になる」ってことには、色々な考え方やモデリングがあるでしょうし、私も、あれこれのモデルがそれなり好きです。
ただ、私自身を振り返って時々考えるのは、おじさん・おばさんになるってのは、思春期心性の外側に「大人」的な社会適応の外殻を築いていくってことなんじゃないかなぁ、ってことです*1。
どんなおじさん・おばさんも、生まれた時からそのような性質を持っているのではない。
子ども心が中心だった時代もあるだろうし、中二病的な、思春期心性がすごく強かった時期もあるでしょう。
そういう歴史の積み重ねのうえにおじさん・おばさんの人格が陶冶されていくのだとしたら、いちばん新しくて社会性の洗練された振る舞いの内側に、それ以前の心性や振る舞いが眠っているのは自然ではないでしょうか。
いわゆる「大人になる」ってのも、思春期心性を脱ぎ捨てて別の何かになるっていうより、思春期心性の外側に「大人」的な社会適応の外殻をペタペタと貼り付けて、それらしい振る舞いを身に付けていくことではないか、とも思うのです。
もちろん、思春期心性のさらに内側には、子ども心が眠っていることでしょう。
とはいえ、四十代五十代になって思春期心性や子ども心のままに行動していては、渡世は覚束きません。
そこで頼りになるのが、社会適応の外殻の強度であったり、社会性の洗練の度合いであったりします。
成人として・中年としてまなざされる自分自身にちょうど良い処世術を身に付けること――私は、そういった処世術に長けているとは言えず、周囲の同年代に感心ばかりしているような中年ですが、とにかくも、そういった処世術の重要性は強く自覚しているつもりです。
それともう一つは、自分が飼っている思春期心性や子ども心を完全に抹殺してしまうのでなく、適度に外界に触れさせて、呼吸させておくこと。
思春期心性や子ども心を完全に抑圧し、社会適応の外殻にすべてを委ねるようにして生きていると、檻の中に閉じ込めておいた獣よろしく、思春期心性や子ども心が腹の中で爆発しちゃうんじゃないかと私は疑っています。
自分の内に秘めた思春期心性や子ども心を抑圧している人のほうが、ある日、突然に人生のちゃぶ台返しをしてしまうリスクが大きいのではないでしょうか。
たとえば私の場合、ブログや書籍づくりやインターネットの人々との交流によって、思春期心性や子ども心が外界に触れて呼吸できる状態になっているので、それらが抑圧されて内圧が上がり、爆発してしまうとは考えられません。
たぶん、他のおじさんおばさんだって、どこか、そういう部分はあるんじゃないかと思います。さきに触れたように、自分自身が中二病やらなくったって、年少者のそれをみていてエネルギー充填できるだけでもいいんです。
なので、これからおじさんおばさんになる人も、自分の思春期を抹殺しようとするのでなく、社会的に無理のないかたちで腹の中に飼い続けるポリシーが良いのではないか、と個人的には思います。
まあ、飼い殺しでもなんでもいいですが、とにかく、抑圧一辺倒はやめたほうがいいのでは。そして、過去の自分のメンタリティと、現在の自分の社会適応の外殻の、両方を大切にして、適切に統御していくのが望ましいのではないでしょうか。
尤も、実際に問題になるのはこうしたポリシーの次元ではなく、「じゃあ、どうやって思春期心性や子ども心を穏当に飼い続けていくか」「適切に統御ってどうするよ?」といった、方法論の次元になってくるかとは思います。ですが、最近キーボードの打ち過ぎで指が痛いので、ここらで今日はお開きにしたいと思います。
*1:紙幅の都合で細かいことは言いませんが、この考え方は、エリクソンの発達段階説のモデルとも、実はそんなに矛盾しません
(2017年5月26日「シロクマの屑籠」より転載)