どうも新田です。女性に優しい言葉をかけても偽善者に思われがちなキャラクターです。ところで普段女性誌は読まないのですが、この6月発売の婦人画報が創刊110周年記念特別号として、1905年の創刊号復刻版のおまけ付きと聞きつけて取り寄せてみたんですよ。
※婦人画報の「110周年記念号」と創刊号完全復刻版(ハースト婦人画報社サイトより)
■「天皇の料理番」の時代の創刊号が復刊
当時はまさに日露戦争の頃。いま毎週日曜夜にTBSで放送中の「天皇の料理番」を見ていますと、NHKの「坂の上の雲」に見られる最前線の政治・軍事・外交の英雄物語と異なり、庶民の視点から描く当時の社会が興味深いこの頃なわけですが、主人公・秋山篤蔵の妻、俊子は、海産物問屋の長女で、姉妹しかおらず、16歳で婿養子である篤蔵と結婚させられたあたり、自由な恋愛がなかった昔の家父長的な社会の有り様を見せつけられております。婦人画報が創刊されたのはまさにそんな時代でした。
ハースト婦人画報社
ただ一方で、近代化が進むとともに女性の教育・権利向上に向けた動きも強くなっていました。刊行した当時の狙いについて、現在の編集長、出口さんが創刊号をひもとく中でこう解釈しております。
日本の女性たちよ、心身ともに美しくあれ。賢くあれ。広い視野を持つコスモポリタンであれ。さらに女性自らが社会に発信し、世の中を変える力になれ、ということまでを真っ直ぐに訴えているように、私には感じられます。
■ "グラビア"に見られる理想の女性像
創刊号等の復刻は、近年の雑誌マーケティングの流行りではありますが、やはり110年も昔となると掲載された時代の人々の考え方を知る上で興味深いところがいくつもあります。活字だらけと思いきや予想外にグラフィカル。 "グラビア"には、篤志看護婦が取り上げられたあたり、有事勃発中の時代性を感じさせますし、その篤志看護婦会の名誉会員でもあり、鍋島家から皇族に入られた梨本宮妃殿下らのご尊顔を拝見すると、知性と品格、そして社会にコミットメントする意欲を兼ね備えた理想の女性像、つまり編集部なりに世の女性たちの憧れをどう具現化したのかを見出せるような気がします。
また、巻頭を飾るイラスト(上記画像)は、華族女学校(今の学習院女子中・高)の運動会の様子を再現したものですが、版元によると、女性が表立ってスポーツすることにまだ社会的に違和感のある時代だった中で「スクープ」だそうです。これが写真でなく再現イラストというあたりが、インパクトを与えたい雑誌編集と、皇族方への敬意として最後の一線だけは超えなかったのかな、という当時の編集部の苦心の跡が感じられます。
■大隈公の謎の日本女性論
なお、我が母校の創設者である大隈重信伯爵も「婦人画報の発刊に就て」と出したコラムを寄稿しておりまして、これがビミョーに興味深いところです。
前述の秋山俊子さんのように結婚の自由もない印象の時代にあって、大隈公はこうおっしゃってます。
「即ち西洋の婦人の方が遥かに進んで居て、日本の婦人が大に劣つて居るかのように思はれて居た、が、これ全く獨斷的の見解に過ぎないのである」
ほほう。それは意外ですな。してその根拠は?
「支那人のやうに無理に足を細くしたり、西洋人の如く耳に輪を通ほしたり、鼻に穴をあけたり、或はコーセットを用ひて細腰を強ゆるやうなことはしなかつた。要するに日本の婦人は、宗教的にも儀式的にも壓制されたことはないのである。此點に於て▲ 日本婦人は寧ろ大に自由であつたと云はなければならぬ。」
お、おう...。
確かに、纏足やコルセットのように物理的抑制(大隈公が言うところの「風俗の圧制」)こそ無かったわけですが、どうなんでしょうか。日本女性が本当に自由だったのかどうか、これはこれで現代のワセジョから大いにツッコミが入るのではないかという気がしますが。
一応補足しておくと、大隈公は男女交際の自由がなかったことや男尊女卑の因習があることは引用した前の部分の記述で認識していることは伺えます。でも、女性の参政権が実現したのは第二次大戦後まで待たねばなりませんでしたしね。それでもなお、「日本女性が自由だ」という、大隈公の個性的な見立てが、やや謎のロジックで導き出されているのも注目です。
■110年後の日本社会の「女性活躍」
それにしても110年経った現在の日本は、世界に冠たる文明国にはなったものの、女性の就業率がOECD30カ国中で下から数えた方が早い現状であるとか、総理大臣が「女性が輝く社会に!」と叫んで女性活躍担当大臣を内閣に置いてしまうあたり、泉下の初代編集長、国木田独歩先生がどうご覧になっているんでしょうかね。
「ようやく変わってきたのか」と一定の評価をされているのか、それとも「1世紀経ってもまだこんな様子なのか」と呆れていらっしゃるのか。下北半島のイタコさんを通じてお尋ねしてみたいものです。ではでは。