海外出羽守とは?
海外出羽守(かいがいでわのかみ)とは、「〜の国では」と何かにつけて海外の事例を引き合いに出して語る人のことです。 ぼく自身、ヨーロッパに住んで学問的にも、時にはただの雑感としても多くの海外事例を紹介してきました。
しかし時に、紹介の仕方を丁寧にやらないとそれは根無し草の安全な所からの「高みの見物」のような印象を与えてしまうことがあります。そのような発言を批判して、「アンチ海外出羽」のような批判者がネットの言論空間で多くいることも事実です。
改めて「海外出羽守」の発信者も、さらにその批判者も気をつけたいことをまとめます。
無責任な海外出羽守にはなりたくない
北欧研究をしている身としての、ぼくのスタンスは「無責任な海外の出羽守にはなりたくない」で、これはスウェーデンに渡る前からずっと思っていたことです。何せもともとスウェーデンのことはとくに国としてたいして興味があったわけでもなく、それよりか若者支援の活動で忙しかったので、北欧に渡るとしても「実践に活かせることは何か?」ということしか考えていませんでしたから。
なので、「マクロ」な話や海外の事例を聞いているときはこう思っていました。(以下、4年前のツイート)
海外在住の日本人で大学院とか国際機関で働いた人で、何かと日本の話題に文脈なくして「〜では」とかいう出羽守にはならないように努めたい。こういう人に限って偏ってるなって思うことけっこうある。
— たっぺい from Tatsumaru Times (@tppay) 2014年11月26日
留学生も含めて、そういう人に限って「日本では〜!」と主語を大きくする。飲み会の席の話なら別にいいんですけどね。。。
なぜ海外出羽守と認定されたのか?
今回この記事を書こうと思ったのは、そんな僕が「海外出羽守」として認定されたからです。きっかけはこちらのニュージーランド在住のマーディーさんに寄せられた質問。
スウェーデンの若者が立派だ、ドイツの環境政策が素晴らしいのは事実。ただ、「日本がダメ」とは言っていませんよね?ただ、事実を述べているだけで、批判には力いれてないと思うので、質問者さんのおっしゃる意味がわかりません。 #peing#QuestionBoxhttps://t.co/2Rpu7r9pxZpic.twitter.com/fflzBGcndH
— マーディー@NZ (@rym_nz) 2018年3月5日
残念なことに、他の海外在住者の中には、自分の在住国を持ち上げて日本をディスることでしか存在感を示せない人も多いような気がします。特にヨーロッパ、スウェーデンやドイツの在住者にその傾向が顕著です。例えば、スウェーデンの若者は立派だ、とか、ドイツの環境政策はすばらしい、とか。海外に住んでまで、ツイートでわざわざ日本を批判することに力を注ぐのは、本末転倒です。 |Peing
明らかにぼくのことを指していますね...。そもそもスウェーデンの若者研究やっている人少ないので。 というわけで以下、僕からの怒涛の回答です。
スウェーデンに関しては僕のことなんでしょうけど、もちろん海外事例を講演や論文で紹介するときには、大前提として「背景・文脈の違いが異なるので簡単に導入するこどできない」スタンスでいます。おそらく多くの海外事例の紹介者はそういうスタンス https://t.co/aHBTk6WS5U
— たっぺい from Tatsumaru Times (@tppay) 2018年3月5日
一方で発信者側は常にこれを意識して複眼的な視点でコンテンツを練る必要はあります。 極端な「海外出羽守」もそれを一面的に切り取って批判する人も、どちらも「わかりやすさ」に逃げてはいけません。白黒ハッキリしないのが世の常だからです。
しかし、Twitterのつぶやきは長文・曖昧さを嫌うのでこれがやりにくいのです。これはメディア(媒体)の性質に規定されて言論が極端に表出していることの表れです。だから、ツイート自体は「出羽守』っぽくても、ツイートの真意はそんな「極端」ではなく、むしろ何かしらの「想い」(良いも悪いも)があるんだろうなと察して読解する必要があるでしょう。本当は日本好きでつぶやいてるのかもしれませんし。
海外事例を紹介する発信者が気をつけたいこと
ぼく自身、比較研究していて思うことは色々あります。最近は統計的な手法で幸福度や教育などの良し悪しを計る大規模な国際調査もできるようになりました。
しかし、ランキング化して世界をフラットにすることで、歴史や文化・背景などの文脈を見えづらくしてしまう可能性もあります。(だから最近はあえて、文脈を読み解く質的(縦の)研究がいいなと、個人的には思っていますが研究者としては両方やらないとですね。) 海外事例紹介をツイートだけで紹介するとすぐに「出羽守」とみられる。
では、論文としてまとめると今度は、全く読まれなくなります。科学的に「正確」ではあるけども「読みやすさ」がなくなるからです。だから、こちらの記事で書いたスロージャーナリズムの性格と似ていますが、ブログくらいのメディアが、丁度いいのではないかと思ったりもしています。
そして発信する際にはいくつか気をつけるべしポイントがあります。日記の中で「こんなことあったよ〜」と紹介するのならまだしも、「日本」を主語として海外事例の紹介をする際は、日本の似た事例や背景・文脈の理解と言及も必要です。それなしの海外事例の紹介は、「日本」に参考にしにくいし、読者はモヤっとするでしょう。(それを目的としいない文章ならこの限りではない)
しかし、海外事例の中には日本には全く存在しない事例もあります。その場合、「なぜその国にあって日本にないのか?と掘り下げると良いです。そうすると必然的に日本、海外の国の背景・文脈への理解が深まり、普通に良いコンテンツになるからです。
このような姿勢なら、「北欧の事例の方が常に良し」という北欧礼賛主義にも、なりづらくなるのではないでしょうか。 ついでにいただいた質問に関していえば、そもそも
この質問者さんが誤解していること、知らないこと ①僕が日本の若者支援の実践者や研究者と留学前も後もずっと繋がり続け、互いに学び合ってること。そこに一方的な押しつけはない ②比較可能となる軸 ③現在、欧州在住ではないこと https://t.co/Xg4OacqM5Z
— たっぺい from Tatsumaru Times (@tppay) 2018年3月5日
比較研究してるだけなら「叩かれない」論文を量産していれば、炎上リスクもないし平和に研究活動ができるんだろうけど、それじゃ間に合わない。こんな時代に新しい表現手段で発信していくだけで、ふとしたきっかけで社会が変わっていくことがたまにある。そういう偶然性を垣間見た時がこれまでもあった
— たっぺい from Tatsumaru Times (@tppay) 2018年3月5日
そもそも「比較をする」とは何か?
海外事例を紹介し、その事例を「読解」する際は、「読書と社会科学」を著した内田義彦が、
本でモノが読めるように、そのように本を読む。それが「本を読む」ということの本当の意味です
というように、海外の事例(本)で「日本の(モノ)」が読めるようになろう!という姿勢が出発点となるのではないでしょうか。 しかし、それである事例を知ってその背景である国の文化や歴史、社会制度を知れば知るほど身動きができなくなることもあります。
だからといって、海外事例を引き合いに出すことを止める必要はありません。「日本で単純に導入なんてできないか‥」という葛藤を常に背負い続けることは、比較研究者の使命なのかもしれません。その事例に衝撃をうけた、その個別化されたストーリー自体は本物であるからですし、そのようにしてこれまで歴史は変わってきたからです。
そもそも人間が「比較をする」というのは、自然な考察なのです。こちらの論文によると、社会科学の比較研究の起源については,アリストテレスの行った「ギリシア都市国家憲法に関する比較研究」に求めている学者があるほど長い歴史がある、ということです。 同論文の筆者の朴氏は「比較の意味」についてドガンのこの文章を引用しています。
「ある人間や観念,あるいは物事を,他の人間や観念,物事と関係づけて評価することほど自然なことはなし。知るためには基準となる目印が必要だからである・・...・比較は最も良質な理論を育む土壌ともなりうる...・・・それは 社会科学が真に科学となりうるための手段でもある。デカル卜の「われ思う,故にわれ在り 」 という言葉をもじっていえば「われ比較す,故にわれ思う 」ということができるのであろう」(Dogan and Pelassy /桜井陽二訳,1983: 1 -4 」
「考える」ことほどに、「比較する」というのがいかに自然な考察なのかということを述べています。何か新しい事柄に出会った時に、既に知っていることと私たちは無意識に「比較」する。日本で育ってきて、日本のことがわかる。だから「自動的に」比較する。
それで見えてくる、新しい見方をシェアしたいから、ツイートしちゃうんです。だから時に、「海外出羽守」になってしまうのです。そんな時には、上でまとめたことを心がけるようにしてみましょう。
以上、海外事例を引き合いに出す時に、発信者も批判者も気をつけたいことをまとめてみました。
*この記事はTatsumaru Timesの元記事「海外では海外では〜「海外出羽守」の批判者も発信者も気をつけたいこと。」より転載されました。