ヨーロッパの政治家、ジャーナリスト、オピニオンリーダーと話をすると、必ずと言っていいほど、なぜ、福島第一原発の事故が起きた日本で脱原発が政治的な争点にならないのかと聞かれる。
明確にこれだという答えはないのだが、と答えつつも、やはりこれが一番問題だと思っていると挙げるのが、日本における脱原発運動の、なんというか「セクト化」ではないかということ。
かつて福島以前にも、「反原発」運動があったが、その中には何かを実現させるための運動というよりも、「反原発」を利用して自分たちの勢力を強くするためにやっていたようなグループもあったようだ。
福島第一原発の事故以後、「脱原発」を真剣に、あるいは現実的に目指す人が飛躍的に増えたのは事実だ。
現実的に脱原発を実現しようとするならば、同じ方向を向いている人を結集し、最大公約数の目標を多くの人で共有していくことが大切なはずだ。
しかし、ネット上の様々な書き込みを見てわかるように、そうした動きに対して逆行しているものも多い。
原発を推進しようとする勢力、原子力村の利権を可能な限り守っていこうとする声と戦うのではなく、脱原発を主張している人たちの間の細かな主張の違いを取り上げて、あいつはだからダメだ、このグループはまやかしだ、こんな主張はとんでもない等と、本来、脱原発という共通の目標を持っているはずの人を盛んに非難する人がいる。
再稼働なんて絶対に認められない。いや、将来的には脱原発するにしろこのまま原発を全く動かさないなんて非現実的だ。
今すぐ脱原発と言わないのは子供の未来を考えていないからだ。2030年までに段階的に原発依存を減らしていくのが現実的だ。
がれき処理に賛成なんて脱原発派じゃない。何を言ってる、被災地のことを考えない脱原発なんか自分だけ良ければいいのか。
脱原発のためには電気代がいくら高くなったって仕方がない。馬鹿なことを言うな、エネルギー安全保障を考えた現実的な脱原発のシナリオが必要だ。
共産党なんか非現実的だ。自民党なんか原発推進じゃないか。原発ゼロだけど再処理は継続という民主党なんかわけわからない云々。
たとえば原発ゼロの会は、なるべく共有できる目標を一緒に共有しようとしてスタートした。
再処理はやめよう。再生可能エネルギーを増やしていこう。どこかの時点で脱原発を実現しよう。
これならかなりの人が思いを共有できる。
本当に脱原発を実現しようというならば、敵は推進派であり、まだ残る原子力村・電力村である。
脱原発という同じ方向を向いている他人の悪口を言っても脱原発は進まない。
大きな現実的な目標を共有して運動をすると、自分のグループがその中に埋没してしまうと危惧する人たちは、それを嫌がる。
自分たちが一番正しい、他のグループはいい加減だということをことさら強調することにあくせくしている人たちがいる。
そういう人たちは、事細かな違いを取りあげて、努力している人でも批判する。
インターネットの書き込みを見ていると、そういう人が少なくないのに驚く。
そういう人たちの揚げ足取りのような批判を聞いているうちに、脱原発にかかわることに幻滅して離れていく人たちもいる。
後ろから鉄砲を打つような人を相手にするのはやめよう。
脱原発という同じ方向を向いて、なるべく多くの目標を共有していきながら、現実的に、一歩ずつ歩いていこう。
相手はいまだに闇の中でうごめく原子力村だ。
(※この記事は、2013年8月30日の「 河野太郎公式ブログ ごまめの歯ぎしり」より転載しました)