昭和四十年男の必需品、最後発FM誌『FMステーション』開局【創刊号ブログ#7 前編】

「FM誌」というカテゴリーがかつて存在したことを知る世代は、現在40代以上の方々だろう。

最盛期には50万部を記録したFM誌

「FM誌」という雑誌カテゴリーがかつて存在したことを知る世代は、現在40代以上の方々だろう。ここでは私が会社員として「編集者」だった最後の雑誌、『FMステーション』を取り上げる。

ラジオのAMとFMという変調方式の差異によりかつて、AMはトーク、FMは音楽という暗黙の棲み分けがなされていた。

よって「深夜ラジオ」という冠は、かの「オールナイトニッポン」のようにAMのトーク番組にこそふさわしく、FMには無縁の形容詞だったとして過言ではなかろう。

FMではいつも音楽が流れ、懐のさみしい中高生は自身の好きな音楽を、このFMを介して探し、時として手に入れていた。

「手に入れる」際に必要だったのが「FM誌」。

FM誌にはFMラジオの番組表が掲載され、自身の好きなミュージシャン、好きな曲が「何月何日の何時から」オンエアされるかが、可能な限り記されていた。

よってラジカセだろうがコンポだろうが、お目当ての時間に設定し、好みの音源を録音したものだ。

当時の録音「媒体」と言えば、当然「カセットテープ」。「オープン・リールテープ」から格段に進化したとは言え、脆弱な「磁気テープ」に書き込むシステムだ。

フロッピー・ディスクもMDもない、ましてやDVD-ROMやハードディスクなど、少なくとも一般家庭には存在しなかった。「クラウドに保存」など、間違いなく近未来的なソリューションだ。

そんな録音の船頭であるFM誌の最後発『FMステーション』が、ダイヤモンド社から創刊されたのは1981年7月6日。発行人は坪内嘉雄、編集人は高橋直宏。

同誌は同社の自動車誌『CAR&DRIVER(カードラ)』姉妹版として同年3月にプレ創刊号をリリース、この6月に本格創刊となった。

FM誌はすでに共同通信社から『FMfan』、小学館から『FMレコパル』、音楽之友社から『週刊FM』が先行発売されていた。

正式誌名が長いのでそれぞれ「エフステ」、「ファン」、「エフレコ」、「シュウエフ」と略称されていた。なぜか「ファン」だけFMの呼称がつかない。

『エフステ』は創刊から一年ほど赤字続きで「いよいよ休刊か」という憂き目もあったらしい。

しかしその後、神風が吹いたごとく売上を伸ばし、雑誌業界では珍しいことに、最後発の同誌が最盛期には50万部を記録。もっとも名を売ったFM誌となった。

これにはいくつかの理由があろう。

最大の理由は判型。それまですべてB4サイズだったFM誌においてA4サイズでリリース。最大の売りだった「番組表」が他誌と比べ圧倒的に見やすかった。

さらに米音楽チャート誌『キャッシュ・ボックス』と提携したことにより、洋楽全盛だった当時の風を呼び込んだ。加えて表紙には鈴木英人のイラストを起用、「垢抜けた」デザインは物珍しかった。

実際、当時高校1年生だった私はそれまでのダサいFM誌に比べ、「自分たち若い世代に向けた雑誌だ」と感じた。発売日と同時に本屋に足を運び、同誌をゲット。

帰宅後、蛍光ペンで気になる番組をマーカーし、カセットテープに録音した。時代の流れとともに大部分を破棄したが、今でも100本ほどのカセットが残されている。

鈴木英人の手による創刊号の表紙は、シーナ・イーストン。スコットランド出身の彼女は1980年にデビュー。81年6月、アルバム『モダン・ガール』がオリコン洋楽チャートで1位となった、まさに旬のシンガーだった。

英人のイラストを切り抜き用カセットレーベルとして付録に挿入、これが人気を博し、英人のイラストは同誌の顔となる。このカセットレーベル入りのテープが自宅に残されているという40代以上はけっこうな人数に登るに違いない。

創刊前、英人はまだ無名に近かったらしく、「カードラ」の表紙イラストを担当していた小森誠の推薦だった。

誌名も物議を醸し出したという。

昭和な当時は「ステーション=駅」という固定概念があり「FMステーションって、鉄道雑誌?」と揶揄されたらしい。私の入社当時、編集長を務めていた恩藏茂によると「ステーションという言葉をメジャーにしたのは『FMステーション』」とのこと。

「FM局」という意の誌名にそれほどの創意工夫が見られるとも思わないが、時代の流れとはそんなものなのだろう。

TV番組「ニュース・ステーション」、「ミュージック・ステーション」などのネーミングも「エフステ」ありきだったとか。同誌がなかったなら現在の「報道ステーション」も存在しなかったのだろうか...うーん、はて、いかに。

創刊当時は「オーディオ」の全盛期。表2にはTORIOKT900とKT1000というラジオ・チューナーの広告がドーンと見開きになっている。「チューナー」なんて言葉を、今の若者は知らんのではないだろうか。そして女性誌でもないのにこうした広告が8ページまで続く。広告局の大盤振る舞い...だろうか。

目次は右半ページに無意味に小森誠のイラストが掲載されている。ここに着目した読者は皆無だったに違いない。

巻頭は「本誌独占●海外取材喜多郎のエジプト・イメージ紀行」でスタート。独占取材のわりには、書き手が朝日新聞記者であったりする点はご愛嬌。それにしてもエジプト取材からスタートとは、創刊当時のエフステは豪奢だったのだ。

「栄光のオールディーズ大特集」は残念ながら高校生にとってはどうでもよかった。1955年からのポップスの年表が掲載されているが、今の若者が過去の音楽に興味を持たないよう、当時の高校生にとってはそんな古びた音楽に意味はなかった。

私は、これを勝手にビートルズ世代の恩藏の企画だと思いこんでいる。当初、売れ行きが悪かったというのも頷ける。

私が入社した当時も続いていた「WHO'SWHO」では、ノーランズ、ドゥービー・ブラザーズ、アバ、三原順子、クリスタルキングなどを取り上げている。確かにジャンルにこだわる様子はない。

オーディオ・コーナーは「森本哲郎のサウンド教室」として連載エッセイとなっていた。朝日新聞の編集委員まで務めた評論家の森本が、オーディオ解説にまで手をつけていたとは、すっかり忘れていた。私の『週刊宝石』丁稚時代、氏を取材する機会に恵まれた過去も、もはや思い出だ。

中綴じのセンターにはFM誌の「肝」=「2週間FM番組表」が割り当てられている。創刊号では、まだ雑誌を傷物にしたくなかったらしく、私の所持品に蛍光ペンの痕はない。

番組表は本誌のページ数にはカウントされておらず、別冊扱い。その最後には『キャッシュボックス』誌のアルバム・トップ100が転載されている。

1981年6月13日付のランキングは、1位「禁じられた夜(HIINFIDELITY)」REOスピードワゴン、2位「パラダイス・シアター(ParadiseTheater)」スティックス、3位「悪事と地獄(DirtyDeedsDoneDirtCheap)」AC/DC。

以下、キム・カーンズ、スティーブ・ウインウッド、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、ヴァン・ヘイレン、ケニー・ロジャース、グローバー・ワシントン・ジュニア、ラッシュ...がベスト10。

11位には、前年射殺されたジョン・レノンが顔を見せている。

さらにオリコンのアルバムチャートも掲載。

1位から「リフレクションズ」寺尾聰、「時代をこえて」松山千春、「グレイテスト・ヒッツ」アラベスク、「シルエット」松田聖子、「ロング・バケイション」大滝詠一...時代を感じない者はないだろう。

69ページの編集後記には、キャッシュ・ボックス社長のジョージ・アルバートが祝辞を寄せている。

おっと、そもそも現在の若い層には、キャッシュ・ボックスの解説が必要だ。同誌は、1942年7月にアメリカで創刊されたチャート・マガジン。毎週、すべてのジャンルを総合的にランク付けし、発表していた。

エフステ創刊時、日本では同誌の扱いがなく、そこに着目したエフステは素晴らしかった。しかし、CB誌も時代の波により1996年11月16日号をもって休刊。当時ニューヨークに住んでいた私もその時の衝撃を記憶している。

現在のWEB情報社会となって以来、2006年にはオンラインマガジンとして再生。21世紀の現在も、楽曲をランク付けし続けている。

エフステの編集後記は「ミキシング・ルーム」と命名されており、創刊から9年後には、毎号私のコメントも掲載されることになる。この影響ではないと思いたいが、編集後記がない雑誌は「半人前」という意識が私には植え付けられ、今日でもそう刷り込まれたままだ。

表4は「ハーマン・カードン・ジャパン株式会社」のパワーアンプの広告。「パワーアンプ」なんて言葉を知る10代が現在、どれほど存在するだろうか。

表3には「AUREX(オーレックス)」のミニコンポの広告が見開きで。東芝の別ブランドだったオーレックスなんて「消滅して久しいなぁ...」と考えていたところ、なんと2016年に復活を遂げたのだという。

創刊号だけではなく、こうして過去の雑誌に目を通すだけで、時代の変遷が理解できるだけに、なかなか止められない。創刊号マニアとは、かっぱえびせんみたいなものである。

自身が勤めていただけに、思いの外、長いブログになってしまった。

続きは【後編】で

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