明治神宮外苑の絵画館は正式名称を「聖徳記念絵画館」といいます。
「聖徳」というのは、もっともすぐれた知恵という意味です。
聖徳太子が有名ですね。
本名は厩戸(うまやど)皇子、上宮王(かみつみやおう)だったのですが、没後100年をして、その事跡の大きさから聖徳太子と呼ばれるようになったのです。
一歩間違えば欧米列強に侵略されかねなかった、江戸から明治への一大転換期を乗り切った明治という時代は、そういう意味で「聖徳」と呼称されるべきでしょう。
その聖徳記念絵画館は、大正7年(1918年)6月15日に募集開始。
同年9月16日締切で一般公募(オープンコンペですね)をおこない、応募図案156通の中から大蔵省臨時建築部技手の小林正紹氏が一等をとりました。
小林正紹氏は明治23年(1890年)生まれで、昭和55年(1980)年にお亡くなりになっていますが、当時はまだ28歳です。この年におこなわれたもうひとつの公開コンペ国会議事堂でも1位になっていますから、彗星のごとく現れた新人建築家といってもいいでしょう。終生官庁の営繕のお仕事をされていたようですが、民間建築として有名なのが新橋に今も現存する堀商店ビルです。
堀商店と聞いても建築関係者以外はピンとこないでしょう?実は知る人ぞ知る明治23年創業という日本の扉金物のトップブランド最高峰のメーカーです。
最近の建物では扉と金具を一体で納品する廉価な新建材メーカーの台頭で、扉ごとに金具を選ぶ機会が減ってしまっていると思うのですが、予算に余裕があってもなくてもメインの入り口のノブとか素手で触る部分には、なんとかして堀商店製品を使いたいものです。
昔、自動車の広告で「いつかはクラウン」という名コピーがありましたが、モノを知った住宅建築家の間では、「いつかは堀商店」っていう感じのとこです。
ちなみに、私が若いころ修行していた齊藤裕先生んとこでは、扉金物は堀商店、照明器具はヤマギワ以外使うな!と固く厳命されていました。
建設当時、このあたりは新橋の煉瓦通り、また建築金具関係の会社も多かったようでして金物通りとも呼ばれていたそうです。
絵画館の建設ですが、小林案を佐野利器の指導のもと、神宮造営局の小林政一と高橋貞太郎で実施設計が進められました。
途中大正12年(1923年)の関東大震災にもみまわれ工事中断も経て、完成は大正15年(1926年)のことです。
土木学会のデジタルアーカイブに当時の雑誌記事がありました。
「工事画報」大正15年12月号の絵画館特集です。
記事中の第一提言
記念絵画館は日本人の設計になったものとしては近代的な最も雄偉なる代表建築である。
佐野利器の解説
明治時代の帝徳を史的に表現するものであるから、欧風を脱化した日本の近代的な建築物として最も代表的なものとした。
実施設計者小林政一の解説
様式は所謂(いわゆる)近世式で外苑の風致と調和を保ち、雄偉剛健なる風致を表すに努めたのである。
と、建設当時の切実なる想いがつづられております。
そして東京の新名所となりました。
周囲の樹木はまだちっちゃくて、森にはほど遠いですね。
絵画館の西北方向には、すでに大正13年(1924年)に明治神宮外苑競技場があるはずなのですが、見えませんね。
それはどうしてなのか
引き続き外苑周辺施設について解説していきたいと思います。
(2014年3月16日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載)