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東洋経済 2013年11月2日特大号
「11月中旬ごろをメドにJSCや東京都などに対し、新国立競技場の建設計画の見直しを求める要望書を提出する」
まあ、確かに。見直しした方がいいでしょう。
ザハ・ハディドさんの設計デザインについてなのですが、
上記記事だけでなく多くの一般紙メディアでは、
建築物のカタチについて流線型とか躍動感とか、いったように
うまくその特徴というか建築の意味をとらえられていない、表現できていない。
というのも、「流線型」というのは非常に便利な言葉であって
ある種のプロダクトが多少丸くなっていれば、この数十年間ずっと流線型なんです。
他に言葉がない、初期の新幹線だって流線型だったし、
戦前のタトラだって流線型だった。
そこからして、ザハがわかっていない。
ザハの建築物がどういう意図でああなっているのか
なぜ、ザハが国立競技場の設計者としてダメなのか
もしくはじゃあなんでザハが世界的建築家としての評価を受けているのか
それは「脱構築」によるといいました。
「脱構築」というのは哲学用語で建築の言葉ではない、ということも
ジャック・デリダが「脱構築」でいったことというのは、
西洋哲学の伝統というか発展継続過程で、
哲学って自分らが思ってるほど素晴らしくないんじゃないか、
カッチリしてないんじゃないか
そんなに偉いのか、、哲学ってドヤが過ぎないか?
といった疑問というか批評をした人です。
哲学者が「あるものはこうである」と言い切ったその中に矛盾があるじゃないか
むしろ、「あるものはこうである」と言い切った瞬間に既にそうではないものを含んでいる。
そのことに気づいた前提でもっとお前ら謙虚になるべし、と言いました。
たとえば、「酒は百薬の長である」、「酒は万病の元」ともいいますよね。
呑み助が百薬の長と言い切った瞬間、飲み過ぎは体に毒だ、という認識もあっての自己正当化であるはずだ。といったようなことです。
哲学的なひとつの強い言説はその中に既に対抗概念をあらかじめ含んでいるから慎重にね!といった感じです。
その「脱構築」という言葉がブームになったときに、
上記の意味内容をバカだから取り違えたのか、
悪意で意図的に取り違えたのかわかりませんが
建築家の中でアヴァンギャルドを指向する人たちの中から、
「今までの建築の手法や構築性って権威的じゃないのか?」
「伝統的な様式っていうのはドヤが過ぎるんじゃねえの?」
「建築が機能的に構造的に整合するその中に既に矛盾があるんじゃん」
「ふつうの構築に異議申し立てをして批評したらどうよ?」
という大義名分を押し立てて、こんなのを作り始めた一派が出ました。
これらはコンペの審査等により実際に建っているんですよ。
で、これらの本来ならまあふつうに建っていたであろうシチュエーションの建築物を、傾いた、壊れかけた、ねじれた建築としてデザインしてみんなをビックリさせてやろうという意図のもとに計画しています。その考えは本当に幼稚です。
脱構築というテーゼは掲げておりますが、実施の構造システムは案外見えないところに上手く仕込んであるため、倒れそうに見えますが倒れません。
あくまで表面形態的な処理により、ねじれ崩れたように錯覚させています。
できれば、まわりが普通であればあるほど、形態的な現代彫刻性が対比的に勝るので、古い街並みの中であえてこれをやることをことさら好んでいる連中です。
実際には、彼らはこれらの建築コンセプトについて、ポスト構造主義の哲学的言説を用いてもっともらしく語り我々を説得、納得させようとしますが、まともな教養があれば到底そうは受け取れない。
ビックリさせようとしているアーチスト気取りなだけと、取り合わないのが正解。
しかしながら、建築というジャンルは、敷地と施主と物件が一対一、そのときの一回性のものなので、一件の設計デザインが10万件建ったとか、100万ダウンロードとかいったことは起きません。
評価の仕組みの中に「大衆性」がない。
いわゆる売れる売れないとか、多くの人たちの支持によってチャート順位が変動するとかいった現象が起きないので、「良いものか悪いものか」とか「人気があるとかないとか」そういった第三者的な評価の軸が成り立ちにくいのです。
施主さんと一対一の了解性でもって成立するわけだから普遍性のない特殊解でもいっこうにかまわないはずなんですが、
それだけではイヤだ、もっと多くの人に褒められたいと強欲しています。
そのため、建築家という人たちはすでに大衆的評価の確立している他ジャンル、
ファッションとかアートとかそういったところに実はなびきやすい。
特にこの30年くらいは、建築学のみの独立した価値観で勝負しない傾向にあります。
そのため、特に包括的な価値観の元になっているであろう、その時代の哲学的テーマを借りて大義とする傾向が強いのです。
虎の威を借る狐ならぬ、哲学の威を借る建築なのです。
で、この人たちと同じ仲間だとされたいたのがザハです。
ザハは既存の建築の仕組みの中に、非常にアンバランスな構造とか、
速度をもった動きとか複雑な関係とか物体同士のネットワークを視覚的に
表現することで、「脱構築」をテーマとする建築家のひとりと位置づけられました。
現代の都市がもつ高速道路や鉄道ネットワーク、インフラストラクチャーや、
情報ハイウェイといったものが集積、離散するさまを動的にとらえたまま、
静止させた状態で建築するわけです。
そのことで、既存の建築物があらかじめ潜在的にもっているであろう、
見えないネットワークの構造をカタチにしてやろうといったことではないでしょうか
まあ、本来は映像でやるべきことで、建築で表現する必要のないテーマでしょう。
ただ、ザハは最初のころこうした断片的な物体を本当に支えなくして宙に浮かせたいと純粋に考えていたため、設計図上構造が成立しえなかったんです。
そのため、施工を担当するゼネコンが見えないところに通常の柱梁をもった構造体を、仕込もうとしましたが、ザハはそれでは建築の本来的意図がダイナシになってしまうので絶対に認めない!と突っ張っていました。
私がなぜそれを知っているかというと、私が20代のころ勤めていた設計事務所が、同時期にザハの施主さんからいくつかビル設計の依頼を受けていました関係で、ザハデザインのビルをどうにか実施に向けてアクロバットな状態のまま構造成立させるようにと、イギリスの構造家とお手伝いしていたからなんです。
どこかに当時の設計図あると思うんですが、部材の断面が鋭角だったりして
そりゃもう垂直な材も水平な材もない既製品の鋼材がほとんど使えないくらい尖んがった現代彫刻張りの建築、アンソニーカロとかの彫刻をそのまま巨大化したといった方がいいものでしたね。
今でこそ私も正気に戻りましたが、白状すると20代の当時はこのアバンギャルド全面押しでした。
普通の構築と比較するとこうなりますか、、赤い線が構造の構成です。
オレンジの点線は外観を決定する二次部材です。
だから、めったなことでは建たないし、建てようとするとエンジニアリングにも、
構造部材にも構成する建材にも莫大なお金がかかる。
建築があらかじめ持つ整合性に隠れているであろう潜在的な動的ネットワークをあらわにするわけですから、骨組みも内臓もバラバラにしたまま再構成して、脱構築を構築をするという、、、なんだかなあ、、、
結局、建たなかった。
しかし、同じ脱構築関係の建築家の人たちは徐々に実作をモノにし始めていた。
どうする?ザハ、建たないままで終わるのか!と思われたザハでしたが、
自己のコンセプトを大きく崩さないままで実作が可能な手法にたどりついたわけです。
それは、もっと大型の建築しかやらない!です。
大型の建築物であれば、断片化した部分というのが柱や梁などの部分ではなくてモノコック化されたひとつのボリュームになるから、
構造の整合性は見ためのデザイン性と一体ではなく、視覚的には下位になり、どこかで構造が成立するからです。
なので、ある意味過剰構造状態を是認することになります。
ザハの建築は構造的には必要最小限ではなく常にオーバースペックなはずです。
だから、見積もりが予想より大きくなるわけです。
↑ザハ設計の「箱をつなげて大きく跳びださせてみました」のイタリアの美術館
ボリュームがバカでかいので構造に寄与する列柱が細く見えて存在感消える。
ザハにとってもよかったのは、工事現場にコンピューターが入ってきて解析や図面化でCAD利用が進んだことも追い風でしょう。
設計図というのは。完成予想をするのではなく「次の人に伝えるため」のものなので、デザイン画をいくら描いても建築はつくれないんです。
建築の設計図とは最終的に現場の職人さんのとこまでつなぐリレーのバトンのようなものなので、表面のカタチや完成パースからだけでは、施工はできない。
鉄骨やコンクリートの型枠の角度や半径を算出したものでないと工場で加工できないんです。
CAD化が進むまでは、複雑な形状の数値化にはものすごく手間がかかったんです。ましてや三次曲面や楕円体などといったものは定規がありませんからね。
で、今回の新国立競技場の形状を見ると、、、、
なんか全部、半径の取れない自由曲線なんだよな、、、
それに加えて、2000年以降はザハにとって有利な状況が今度は哲学のエリアで起こりました。
つづきます。
なかなか終わりません。
(2013年11月3日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載)