明治神宮内苑・外苑の初期計画図です。
この後、外苑は回遊型の庭園から最終的に聖徳絵画館を中心としたレイアウトに変更されたようですね。
この地図で見ると現在の原宿周辺はほとんど未開発であったことが予想されますね。
明治通りもまだ開通していませんし、外苑西通りは戦後のオリンピックまで待たなくてはなりません。
同時に、この地図に存在感を示しているのが渋谷川です。
原宿から渋谷にかけて流れるこの川は今ではまったく目にすることができませんが、江戸時代にはここに水車小屋がいっぱいあって水田だったみたいです。
なんと!葛飾北斎の富嶽三十六景にここが描かれているんですよ。
ジャーん!「穏田の水車」です。
僕は子供のころ永谷園のお茶漬海苔の浮世絵カードを集めてましたからね。
今ではすっかり変わってしまいました。
しかしながら、今でも川が流れているこの地形を想像することはできるでしょう。
表参道は明治神宮から今の明治通りにかけて下り坂となって、キャットストリートあたりで、再度青山通りに向かって上り坂になるでしょう?
ちょうど内苑と外苑の間に四谷から渋谷に向かって谷間の地形なのです。
このあたりは「ぶらタモリ」とか、中沢新一先生の「アースダイバー」的な視点で目を凝らして見てみると面白いでしょう。
昔の表参道ケヤキ並木です。
ちょうど真ん中でまた青山通りに向かって上っていることがよくわかる写真です。
表参道といえば各世代ごとにいろいろな思い出があることでしょう。
70年代~80年代は本当に文化の発信地でした。
当時の10代は代々木公園の歩行者天国に集合し、ホコ天出身のさまざまな音楽やパフォーマンスのインディーズアーチストを生み出し、20代はスノッブなファッションや文化の街であったし、30代~40代はそういった文化の送り手として様々なクリエーターが事務所をもっていたことも有名です。
その中心地が今も多くの人たちから伝説のごとく語り継がれる表参道と明治通りの交差点にあったセントラルアパートです。
ここの1階にあった喫茶店「レオン」は糸井重里さんが一押しされて有名でした。
あとレストラン「サボイ」
「宝島」等の雑誌や糸井さんの本を通じ80年代の田舎の高校生でも知ってました。桑原茂一プロデュース「ピテカントロプスエレクトス」と聞いて、ウわーっとなってしまう元高感度な高校生も多いのではないでしょうか
僕の場合、学生時代のバイトがほぼこのあたり関連でしたので、当時30代~40代のカメラマンさんライターさんデザイナーさんに、70年代や60年代の原宿事情なるものを興味深く聞かされておりました。
齋藤裕先生の事務所も原宿にありましたから、僕の場合上京して以来ずーっとなんやかんやで表参道から外苑周辺だったんです。
今はブランドショップやチェーン店であふれかえっている表参道周辺ですが、バブルが始まる90年くらいまでは原宿にはセントラルアパート周辺くらいしか、店がなかったですね。
もうひとつ表参道の代表的建築といえば、いわずとしれた同潤会青山アパートです。ここもかつては表参道のおしゃれスポットでありましたが、実はこの建物の建設には深い立派な目的があったのです。
建設当時の写真です。
表参道のケヤキの木と呼応するようなたたずまいはついこないだまでの表参道の姿と変わりませんね。
同潤会とは大正12年(1923年)の関東大震災の復興支援のために設立された団体です。
震災後に国内外から寄せられた義捐金により震災の翌年に設立されました。
建築家らが評議員や理事に就任し、まず東京・横浜に木造バラックの仮設住宅を建設し、ちょうど競技場や絵画館と同時期に震災二年後の1925年(大正14年)8月から同潤会最初の鉄筋コンクリート造の建設を始められました。
同潤会アパートは耐久性を考え、鉄筋コンクリート構造で建設、当時としては先進的な設計がなされており、最初の中之郷アパートは東大建築学科の内田祥三研究室で行われ、絵画館よりも早い大正15年の8月に竣工しています。
以後は同潤会の中に設計部が設けられ東京・横浜に次々と同潤会アパートを建設しました。
オシャレ建築ではなかったのです。
震災復興住宅だったんです。
しかも義捐金を元にした。
このころの東大の先生も建築家も本当に立派な方々だと思います。
ここに建築家の自己表現とかいったくだらねえドヤ感はゼロなんです。
むしろ機能や構造耐震といった建築必須の条件を突き詰めていった結果の建築が、数十年を経て周囲の樹木と呼応してとても素敵な空間に成長していたことを多くの方々がご存じでしょう。
最近はクリスマスのイルミネーションが有名ですよね。
大きく育った表参道のケヤキなのですが、実はこれらは大正時代に植えられたものではありません。
最初に植えられた201本のケヤキの木は、東京空襲の折に数本を残してすべて焼失してしまってたのです。
それを戦後もう一度植えなおしたものが、やっとここまで成長して昔の姿に戻ったのが今、なんです。
表参道周辺に焼夷弾が落とされた山の手空襲の日の体験を語り継いでいるページがあります。
一部抜粋してご紹介します。
昭和20年に入りますと、爆弾と焼夷弾による攻撃が増えてきました。木と紙で出来ている日本家屋を焼き払うには焼夷弾がより効果的ということで、随分熱心に焼夷弾の研究開発がなされたようです。昭和20年の1月にそれまで司令官だったハンセルに代わってカーチス・ルメイが司令官になりました。鬼将軍と言われた彼は、以後の空襲の総指揮をとりました。
焼夷弾による夜間の無差別爆撃が行われ始めたのは3月からです。超低空での空襲です。そしてどなたでもご存じの3月10日の下町の大空襲になるわけです。3月10日の零時8分に深川に第一弾が落とされてから2時間余りで10万人という方が亡くなりました。この1日で10万人という数は世界の長い歴史を振り返っても、世界中どこにも例のないことです。
3月10日には325機が来襲1665トンの焼夷弾を落としている、それで約10万人の死者が出たとあります。5月24日には562機が来襲し3645トンの焼夷弾が落とされ、5月25日にも502機が来て3258トンの焼夷弾が落とされたとあります。山の手大空襲はそれほど大規模な空襲だったのです。
そこここに入れさせていただいたカットは穂積和夫さんという現役のイラストレーターの作品です。小学校以来の友達ですが、多方面でご活躍の方ですので名前をご存じの方も多いと思います。
木村さんは当時、表参道の同潤会アパートの向かい側に住んでいらっしゃり、この5月25日にはお母様とお姉さまと3人して、炎の海となった表参道を横切って同潤会のアパートにたどり着き、そこに井戸がありましたんですが、井戸水を頭からかぶって、同潤会アパートの一室に逃げ込んだそうです。
ケヤキの木は音をたてて燃え上るし、窓ガラスもばりばり割れる、もうこれ以上逃げることはできないと皆さんで死を覚悟したそうでございます。
山陽堂書店は今も表参道と青山通りの交差点の交番側の角にあります。左の絵は当時の山陽堂で、昭和の初めに建てられ当時としては珍しい鉄筋3階建で地下室もありました。空襲のとき山陽堂の方は猛火に逃げ惑う人たちを地下室に入れて、隙間から入る火炎を必死になって防いで100名余りの方の命を救いました。この写真がオリンピックで三分の二削られた今の山陽堂の写真です。
この山陽堂書店さんもデザイン系のマニアックな雑誌の品ぞろえが良くてよく通いましたが、「表参道が燃えた日」を読むまで、空襲時のそういった歴史的事実は知りませんでした。今後は瞑目しながら本買いたいと思います。
同潤会アパートが震災復興だけでなく後の東京空襲時にも命を救っていたと、これも知りませんでした。本来の建築の真の役目というのは、このように人の命を守ることなんだな、と改めて得心しました。
しかし、大戦末期の日本の空襲のことを考えるたびに胸クソ悪くなる話があります。建築の技術革新によって人の命が救われた例がある一方で人殺しのために建築の知識や技術をつかった建築家がかつていたのです。
前述の「表参道が燃えた火」の中で少し触れられておりますが、
~爆弾と焼夷弾による攻撃が増えてきました。木と紙で出来ている日本家屋を焼き払うには焼夷弾がより効果的ということで、随分熱心に焼夷弾の研究開発がなされたようです。~
外苑に話からズレますが、この件はどうしても知っておいてほしいので、
続いて、こいつのことについて解説します。
(2014年3月19日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載)