「親日国」エチオピアの理由を考える

エチオピアが「親日国」であった歴史は、あまり知られていない事実であろう。

エチオピアと聞いてその国の場所がわかる方は、そう多くはないだろう。一般的なイメージで言えば、コーヒー生産やマラソン選手、そして内戦と飢餓。しかしながら、エチオピアが「親日国」であった歴史は、あまり知られていない事実であろう。

「親日国」エチオピアと現政権の交流

そんなエチオピアと日本の外相会談が先週行われた。主たる会談内容は、①来年初めてアフリカ地域で行われるTICAD(東京アフリカ開発会議)について、②エチオピアの首都アディスアベバに日本貿易振興機構(JETRO)事務所の設置について。どちらの内容においても、エチオピアと日本の協力が確認された。

また、4月にインドネシアで行われたアジア・アフリカ会議60周年記念首脳会議における安倍首相のスピーチ(いわゆる戦後70年談話の「原型」と想定されたもの)においても、アフリカ地域の国家で唯一エチオピアの国名が言及された。

言及された内容は、エチオピアにおいて日本の支援で行われた「カイゼン」(品質・生産性の向上)プログラムの効果についてであった。これは余談になるが、首相はこのスピーチにおいて「躍動感あふれるアフリカの大地」というなんともステレオタイプにまみれた発言をした。

この他にも、9月には中根外務大臣政務官がエチオピアを訪れたり、同月の国連総会において安倍首相がエチオピアのハイレマリアム首相と会話を交わしたりと、両国の出会う場面は少なくない。

「親日国」であったエチオピア

ここで、両国の関係の歴史を振り返りたい。今からおよそ80年前、エチオピアはアフリカで数少ない独立国の一つであった。それも、イタリアに打ち勝って独立を保っていたのである。一方、日本は日露戦争を経て台頭する「有色人種のチャンピオン」であった。両国の近い心理的距離に日本政府のエチオピアへの商業的関心が相まって、1930年に日本エチオピア修好通商条約が署名される。

両国が急速に距離を縮めていったのは1930年代前半である。日本は満州事変を経て国際社会から孤立している時期であり、エチオピアは国際社会への参入と影響力の拡大を目指している時期であった。国際社会の中で相対するような動きを見せた両国が、奇遇にも交錯したのである。

1931年にはエチオピア外相が来日し「エチオピア熱(ブーム)」なるものが巻き起こり、1933年には日本人の華族の女性がエチオピア皇族に嫁入りするという話題まで持ち上がった。また、1935年にイタリアがエチオピアに侵攻してくると、東京の日比谷でエチオピア問題懇談会が開かれエチオピアを支援する旨が決定された。

しかし、エチオピアがイタリアに侵略されてしまうと、急速に「エチオピア熱」は冷めてしまう。そして、エチオピアの仇敵イタリアと日本が同盟を結んだために、日本はエチオピアから宣戦布告を受ける。

エチオピアとイタリアの戦闘が描かれた絵画(アディスアベバ大学の博物館にて。筆者撮影)

大アジア主義者たちによる日本エチオピア交流

ひと時の間燃え上がった「エチオピア熱」を支えたのは、黒龍会を中心とする大アジア主義者たちであった。いわゆる、右翼勢力が日本とエチオピアの関係を結んだのである。

なぜ、大アジア主義者たちがエチオピアとの関係を結ぼうとしたのだろうか。その答えを出すのは容易ではない。心理的な面で言えば、有色人種の独立国であり、皇帝を中心とする立憲君主制を行うエチオピアに共感したのかもしれない。また、綿製品を中心とする日本産品の輸出先として、もしくは日本人移民の入植地として、エチオピアに対する経済的な思惑があったことも想定される。

こうした背景があって、大アジア主義者たちはエチオピア政府に近づいていった。具体的な関わりでいうと、先に挙げた嫁入り問題で交渉を担当したのは角岡友知(右派のドンであった頭山満の顧問弁護士)であり、エチオピア問題懇談会を開催したのは黒龍会であった。

両国の連帯は「有色人種の連帯」とされ、一見すると対等な交流のようにも思えた。しかしながら、史料を注意深く見てみると、ほとんどの文脈において日本が優位であり、日本をエチオピアが見習うという構図が強固に存在していた。例えば、エチオピアが日本の江戸時代のような封建制度をとっていると説明されるなど、日本よりもエチオピアが「未発展」であることを前提として良好な関係が成立したのである。つまり、エチオピアは日本にとって自国を脅かすことのない「かわいい弟」のような同盟国であったのだ。

日本人のような人物が描かれた絵画(アディスアベバ大学の博物館にて。筆者撮影)

今日の日本エチオピア関係を見直す

さて、翻って今日の日本とエチオピアの関係を見ると、皆さんはどう思われるだろうか?80年前の大アジア主義者たちと現政権のエチオピアとの関わりの本質的な違いはなんだろうか?

確かに、時代は変わりアフリカ諸国の経済発展も目覚ましい。両国の具体的な関わりは、大きく変わったようにも捉えられよう。しかしながら、今日の日本とエチオピアに関わるニュースを見ても、両国政府の関係において本質的な変化は見られないように思う。

はじめに述べたが、奇しくも大アジア主義の根底理念である「アジアの連帯」を叶えたアジア・アフリカ会議の60周年記念会議において、安倍首相はアフリカの国家で唯一エチオピアについて言及し、エチオピアが日本を見習って行った「カイゼン」プロジェクトを評価したのである。

そして、このスピーチが戦後70年談話の「原型」と位置付けられていた意義も大きい。戦後70年談話を想定しながら、戦前の日本エチオピア関係を彷彿とさせる表現が埋め込まれていたのである。

この既視感を覚えるような現代の日本エチオピア関係が、歴史的にいかなる意義を持ち得るのかは、今はまだわからない。とはいえ、長く友好関係を築いてきたこの国を、本当に現政権は対等なパートナーとしてみなしているのか、私たちは注視する必要があるように思う。

【参考文献】

     (1999)『エチオピアの歴史 : "シェバの女王の国"から"赤い帝国"崩壊まで』明石書店

藤田みどり (2005)『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店

古川哲史 (2007)「Ⅶ 日本とエチオピア」岡倉登志編著『エチオピアを知るための50章』pp.291-323 明石書店

注目記事