拝啓
イギリス首相、ジャック・ロゲIOC委員長、セバスチャン・コー氏、ならびにIOC委員のみなさんへ
私は、ある切実な思いがあってブログを書いています。それは、スポーツを楽しみ、オリンピック精神を愛するすべての人々が、1936年のベルリン大会で起きた出来事によってオリンピックに汚点が残ったことを、今一度考えてもらいたいという思いです。この大会は、ひとりの専制君主による熱狂的な支援の下に行われたものでした。そしてこの人物は、その2年前にある少数民族を特別に弾圧する法律(訳注/1933年に制定された、非アーリア人種や「政治的に信用ならない者」を公職追放とする職業官吏再建法)を可決させた人物でもありました。この少数民族が犯した唯一の罪は、たまたまその民族として生まれた、ということでした。彼はこの法律に基づいて、ユダヤ人に対し、大学で定年まで契約更新なしに勤務できる終身地位保証や、官公庁の公職に就くことを禁じました。そして警察には、ユダヤ人に対する暴力、略奪、侮辱が行われても見て見ぬ振りをするように指示しました。ユダヤ人が書いた本を燃やし、発行を禁じました。ユダヤ人はドイツ人の純血や伝統を「穢(けが)す」ものであり、ドイツ国家と、ドイツ人の子孫、ドイツ第三帝国の未来に対する脅威である、と断言したのです。彼は同時にユダヤ人をこう非難しています。共産主義という、まったく相容れない犯罪的な体制が生まれたのはユダヤ人の仕業であり、世界の資本と銀行を支配しているのはユダヤ人であると。そして、ユダヤ人の自由主義的思想と民族的相違がドイツ文化を破壊していると糾弾しました。当時のオリンピック委員会はこうした邪悪な行為から完全に目を背け、悪名高いベルリンオリンピックを開催したのです。この大会は、ドイツ総統が脚光を浴びる絶好の機会となり、国内外に彼の威信を広める役割を果たしたのです。オリンピックによって、彼は自信を深めました。この点について、歴史学者に異論はありません。自信をつけたドイツ総統がその後何をしたかは、誰もが知っているところです。
ロシアのプーチン大統領が今、このような常軌を逸した罪を再び犯しているのは実に不気味なことです。ただし今回は、攻撃対象がロシア人のLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)たちなのです。今回も暴力、殺人、侮辱行為に対して、警察は無視を決め込んでいます。同性愛について擁護したり建設的な議論を行ったりすることは、ロシアでは違法です。例えば、チャイコフスキーは同性愛者で、彼が残した作品、そして彼が歩んだ人生は同性愛志向を反映しており、他の同性愛の芸術家にもインスピレーションを与えている、といった発言をしたら、懲役刑に罰せられるでしょう。「本当かどうかはわからないが、同性愛のオリンピック選手は選手村で安全でいられないかも」などとのんきに言っている場合ではないのです。IOCは、普遍的な人権の蹂躙に対して断固たる姿勢で臨まなくてはなりません。プーチン大統領がロシア国会で強引に可決に持ち込んだ野蛮で独裁的な法律(訳注/2014年のソチ五輪で同性愛者の権利を訴える活動を取り締まる新たな法律が6月末に成立)に反対の意思を表明すべき、と私は考えます。忘れてはならないのは、オリンピックはかつて、スポーツだけでなく、芸術競技も行われていたということです(訳注/1948年のロンドン・オリンピックまで絵画、彫刻、文学、建築、音楽の芸術競技が行われていた。現在は文化プログラムとしての芸術展示が行われている)。そして私たちは改めて自覚しなければならないことがあります。それは、スポーツは文化であるということです。スポーツは社会や政治とは別世界の、浮世離れしたものではありません。スポーツと政治は関係ない、という考え方は不誠実でばかばかしいという以上に、どう考えても間違いなのです。完璧に間違いなのです。「政治」という言葉は、ギリシャ語では「国民と一緒になって何かを行う」という意味ですから、政治はあらゆる物事と密接な関連があるのは、誰もが知っていることなのです。
2014年にロシアのソチで行われる冬季オリンピックを全面中止にする議論は極めて重要です。代替地はアメリカのユタ、ノルウェーのリレハンメルなど、いくらでも選べます。いかなる代償を払っても、文明世界がプーチン大統領を支持するようなことは避けなければなりません。
プーチンは同性愛者をスケープゴートにしようとしています。ヒトラーがユダヤ人に対して行ったことと同じです。プーチンのこのような暴挙は、絶対に許してはなりません。私は自分がやるべきことをわかっていました。先日はロシアのサンクトペテルブルグを訪れ、この法案を最初に提出した議員に直接抗議しました。カメラ撮影が行われている前で、この議員の目を見据えながら説得や反論を行い、彼が行っていることを理解させようとしたのです。そのとき、哲学者ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」という印象深い言葉が思い浮かびました。専制君主の多くがそうであるように、愚かな人間は、自分に対して不満をもっている人たちの目を逸らすため、罪をかぶせる他の人間を見つけることにかけては本能的な感覚を持ち合わせているのです。
プーチンはミラノフ議員ほど愚かな人間ではないかもしれませんが、本質は一緒です。ロシアの「価値観」は、西側諸国と違う、とプーチンは言うかもしれません。しかし、それはピョートル大帝(訳注/17世紀末のロシア皇帝。西欧の文明、技術を取り入れ、ロシアの近代化を進めた)の哲学とは完全に相反するものであり、多くのロシア人が望むことにも反することなのです。ロシアの人々は、スキンヘッドの殺人者(訳注/ロシアの極右勢力)と偏狭な宗教の毒に侵されていませんが、民主主義の後退と独裁政治の新たな台頭に悩まされています。新たな独裁政治は、ロシアの国土に多くの弊害を及ぼしています。(ロシアの音楽、文学、演劇にも害が及んでいます。ちなみに私はこれらの芸術が大好きです)。
私はゲイです。ユダヤ人でもあります。ヒトラーが掲げた反ユダヤ主義のために、私の母は十数人の家族を失いました。ロシアでは昔から(そして今でも)、ゲイの若者は自殺に追い込まれています。レズビアンは「矯正のため」にレイプされます。ネオナチの狂人によって同性愛者の男女が殴り殺されかけている時に、ロシアの警察官はその横でぼんやり立っているだけなのです。世の中は悪くなる一方です。私は「歴史は繰り返される」のを肌で感じ、嘆き悲しんでいる多くの人々の中の一人なのです。
「悪が勝利するために必要なただ1つのことは、善人が何もしないことだ」と哲学者のエドマンド・バーク氏は書き残しています。IOC委員のみなさんは、バーク氏が言うところの「善人」になり下がって、悪を勝利させるのでしょうか?
2012年に開催された夏季オリンピック・ロンドン大会は、私の人生にとっても、そしてイギリスにとっても、最大の栄誉となるひと時でした。しかし、ロシアで次回開催される冬季オリンピックによって、オリンピックの精神は永遠に汚され、過去の栄光もすべて失われるでしょう。オリンピックのシンボルである5つの輪は、文明社会の目の前で永遠に名声を傷つけられ、汚され、遂には破滅に至るでしょう。
私はみなさんにお願いしたい。現実主義、拝金主義、粘着質でずる賢い外交的駆け引きなどの圧力に屈せず、みなさんが掲げているオリンピック憲章が謳っている通り、「スポーツを行うことは人権の一つである」という確固たる信念を胸に、誇りをもって立ち上がっていただきたいのです。我々同性愛者が誇りを持ってレインボーフラッグを振るのと同じように、みなさんにも誇りを持ってオリンピックの旗を振っていただきたいのです。オリンピック憲章の誓いと条項に従って、もっと勇敢になっていただきたいのです。ここにオリンピック憲章の誓いと条項を、そのまま記載させていただきます。
規定4: スポーツを人類に役立て、それにより平和を推進するために、公私の関係団体、当局と協力すること。
規定6: オリンピック・ムーブメントに影響を及ぼすいかなる形の差別にも反対すること。
規定15: スポーツを文化や教育と融合させる試みを奨励、支援する。
私が特にお願いしたい人は、私が心から敬意の念を抱いている英国首相です。私は自分の人生のほとんどすべてを、同性愛者団体のリーダーとしての活動に捧げてきましたが、その中で数多くの反対を受け、本能的な嫌悪感にさらされてきました。それにも関わらずあなた断固とした姿勢で、LGBTの権利に対し熱心に、そして誠実に対応してくれました。そして、自分が所属する党の多くの議員から激しい反対にも屈せず、両院における同性愛者の結婚法案の可決に対して尽力してくれました。私はこれからもずっと、あなたを尊敬し続けます。他の点では、あなたと私の意見に食い違いがあってもです。最後に、あなたは物事の善し悪しをきちんと判断できる、と信じてやみません。どうか今、貴方の直感に従って行動してください。
あなたに人権の危機に対する一縷の望みを託して
スティーヴン・フライ
この投稿は最初、www.stephenfry.comに投稿されました。