【これからの僧侶】
たぶん、あなたの実家のお寺の状況からすると、兼業でやることになるのかと思います。頑張って専業を維持したければ、相応の努力が要るでしょう。しかし、専業でやるにせよ、兼業でやるにせよ、これから家族も持つなら教育費などもかかりますし、霞を食べて生きるわけにはいきませんので、生計をなんとか自分の努力で成り立たせようというのは、いい心がけだと思います。その苦労から学ぶこともたくさんあります。
ただ、ひとつ忘れて欲しくないのは、お坊さんになるということは、隅々まで経済原理に覆われた世俗の価値観とは別の価値観で生きることだということです。兼業だから、法衣を着てお経を読んでいる間は仕事中なのでお坊さんとして振る舞うけど、お寺とは別の所で稼いだお金は自分の好きなように使えばいい、ということにはなりません。お坊さんである限り、周りの人は一挙手一投足、その人の生き方全体を見ます。法衣を着ているときにどんなにいい法話をしても、法衣を脱いだときに贅沢三昧、ということではいけません。というのも、お坊さんであるということは、仏教徒の模範であることが期待されるわけで、周りの人ががっかりするような振る舞いをすれば、それは逆布教というか、皆の心が仏教から離れていってしまうことにもなります。
これまでのお寺の世界で、布教は「仏法を伝えること」と捉えられていました。でも、私は布教というのは「仏法が伝わる環境を整えること」だと思います。住職が説法や坐禅指導をする時間だけが布教ではないのです。皆さんが気持ちよく仏法に触れ、深められるようにあらゆる面から導くのが、住職の役目です。仏法が伝わる環境の一要素(重要な要素ではありますが)として、住職という人の存在もあるのです。その意味で、法衣を着ているときだけでなく、法衣を脱いだときも、皆さんをがっかりさせるようなことがあってはいけません。電話の応対ひとつとっても、住職のやることはすべて布教に関わるのです。
ならば、目につかなければいいかというと、確かに「仏法が伝わる環境を整えること」を仕事とするなら、そういう考え方もできますね。でも、私は坊さんほど、「仕事」としてやるのならしんどくてつまらない仕事もないんじゃないかと思います。仮に実家のお寺が裕福だったとしても、「寺を継げば食うのに困らないから、仕事として坊さんやろう」という考えならば、やらないほうがいいですよ。カネのために坊さんをやっても、坊さんとして本当に面白いところを体験することは決してできません。そういう動機で坊さんになると、きっと人生を棒に振ることになります。
あなたの実家の周囲にあるお寺の住職が、高級外車に乗ったり、ゴルフばかり行って檀家から顰蹙を買っているということですが、残念ながらそれも今のお寺の世界にある現実の一面ではあります。でも、もっと周りに目を広げれば、そんな住職ばかりではありませんよ。尊敬できる住職さんもたくさんいます。大事なことは、良い仲間・良い先輩と交わり、自分の僧侶としてのスタンダードを常に高いところに置き続けることです。ビジネスの世界でもそうですね。「まぁ、この当たりでいいか」「これくらいやれていれば十分か」と思ったときが、終わりのときです。仏門ならなおさらのこと、「まだまだこんなところに留まっていてはいけない」と思わされるような友や師を持つことが大事です。
まだまったく僧侶仲間がいないようですが、これから道場に入って修行するというのなら、きっとそこでいい仲間ができますよ。みんながみんな良い友ばかりじゃないかもしれませんが、その中で良い友を見つけて、ご縁を広げていけばいいんです。もちろん未来の住職塾も、良い仲間ができるコミュニティとして、いつでも待っています。
これまでの先祖教としてのお寺のあり方の中では、住職は確かに、ひとまずお経を読めていれば何とかなるところはありました。しかし、これからは仏教としてのお寺が重要になります。一人の社会人・家庭人としては、最低限の生計を安定的に成り立たせる責務があります。しかし、そのラインを超えた収入については、住職をやるならあまりこだわるべきではありません。裕福な暮らしにこだわるのであれば、住職にはならずに、他の職業でそれを追求したほうがいいと思います。
【結局、僧侶になるべきかどうか?】
僧侶になるべきかどうか? 若気の至りの塊のような10年前の私だったら、今のあなたに「仏の道に気持ちが定まらないならなるべきでない」と言ったかもしれません。でも、今は必ずしもそうは思いません。若いうちからいきなり仏門に根を張っている人なんて、そう多くはありません。どんなご縁でも、ご縁はご縁です。「お寺の長男に生まれちゃったから、継がなくちゃ」というのも、ひとつのご縁です。そこから始めて、歩みながら、豊かなご縁に育てられて、だんだんとそこに根を張っていけばいいんです。
たとえ、仏教者としての自覚、信心の定まり方などにまったく自信が持てなかったとしても、「とにかく自分が預かるお寺を絶対に次の世代に渡していくんだ」という強い思いがあるのなら、私はそこにひとつの宗教的な尊さがあると思いますし、その一点において住職として役割を全うすることも素晴らしいことと思います。そして、たとえ今はそのような思いすら持てなくても、歩み始めるうちにだんだんと周囲の皆さんの思いがしみ込んで、自分の隠れた思いと共鳴し「これでよかった!」と思えることもあるでしょう。もちろん反対に、訳が分からないままに歩み始めたはいいけれど、いつまで立っても仏門に根が張らないまま、「これでよかったのかな?」と住職人生を終えることになる人もいます。
だから、僧侶になるべきかどうか、住職の後を継ぐべきかどうか、最後は自分次第であり、縁次第です。そのようなご縁を大事に思うのなら、ひとまずそちらに歩み始めればいいでしょうし、そんなものは関係ない!しばられたくない!と思うのなら、離れて生きればいいでしょう。でも、あなたがご縁を大事にして歩み始めるのなら、努力次第で、きっといいお坊さんになれますよ。
どうか焦らず、ゆっくり考えてください。
(2014年7月14日付「彼岸寺」のコラムを転載)