■年休取得率向上の取り組み
10月は「年次有給休暇取得促進期間」なのだそうだ。このような活動が、今日どの程度機能するものなのか正直よくわからないが、厚生労働省は2020年までに、年次有給休暇の取得率70%を目標値として掲げている。しかしながら、直近(2012年)の取得率は47.1%、過去10年間の推移を見ても46%から49%のレンジを上下するだけで、このままでは、70%という目標値が限りなく実現性に乏しいことは一目瞭然だ。しかも、これが実現できたとしても、100%取得が当然とされている欧米との格差は依然大きいということになる。
業を煮やしたのか、10月3日付けの日経新聞によれば、厚生労働省は、労働基準法を改正して、企業に対して社員の有給休暇の消化を義務付ける検討に入ったという。自主性にまかせておいても埒があかないと見切ったということだろう。
確かに、現状の日本の大半の企業では、社員が職場の上司に有給休暇取得を申し出て、上司は渋々これを受諾する、というスタイルなので、従業員にとっては取得しにくいことこの上ない。『年休は法的な権利』とはいえ、従業員がそのようなお題目をかざすことは、会社に対して反抗的との印象を植え付け、長期雇用を前提としている(現実に実現されているかどうかは別として)日本の労働現場では、大変なリスクを背負うことを意味する。だから、本来取得の理由を語る必要はないのにもかかわらず、自分や家族の病気、忌引き等、社会的な承認を受けやすく、少なくともその職場の空気を勘案した上で許容される理由をさがし、『やむをえない』ことを強調する。それでも、結果的に取得日数が他の社員より多い場合は、やはり非常に居心地が悪い思いをすることになる。こんな空気が変わらない限り、いかに表面的な年休取得日数が増えても、かえって残業が増えたりして負担が重くなるだけではないかと心配になる。
■現場のカイゼンではなく構造改革が必要
年休の取得率向上という点で思い出すのは、私の古巣でもある、トヨタ自動車の生産現場だ。かなり早い時代から、『計画年休』ということで、職場毎に社員に事前に予定を入れさせて、交代で年休を取得することを制度化していた。それと平行して、生産ラインから誰かが抜けても対処できるように、一人ができる職種を増やす『多能工化』や、ラインの監督者が完全にラインに入ってしまって、監督/補助業務が出来なくならないように日常から工程を調査した上で、人員配置を考慮したり、非常にシステマティックに全体を管理していた。このように、規模が大きくしっかりした組織が本気で取組めば、数値自体を多少上げることは可能だろう。
伝統的な日本企業の比較的しっかりとした組織であれば大抵はどこでも、年休取得率向上への取り組み指示が人事部門等から現場におろされると、それぞれの部署で業務をカイゼンして、各人ができるだけ平等になるように調整して、目標日数を達成しようとする。要は、部署毎のカイゼンの積み上げで目標を達成しようというわけだ。
しかしながら、本来、今日求められているのは、『旧来の仕組みに手をつけずに現場の血のにじむようなカイゼンを積み重ねること』ではないはずだ。本当に必要なのは、戦略的で、根本的な構造改革だろう。『年休』という出口の一つとしての指標のカイゼンではなく、仕事のすすめ方から雇用、給与、採用に至るまで、全体の構造を変革した上で、結果的に指標としての年休取得率を上げていくような試みが必要なはずだ。ところが人事部のような全社部門が構造改革を試みると、今度は、現場の部門は自分たちの部署(=村)を守るべく抵抗する。ボトムアップでカイゼンが進むことが世界に誇るべき日本の現場だったはずなのに、こうなると結束して改革を拒む抵抗勢力になってしまう。
■日本的な問題解決手法
昨今では、いわゆる『ブラック企業』の所行が社会問題になっていて、ブラック企業と名指しされた企業の経営者が糾弾されることが多いが、実のところこれは経営者だけの問題ではなく、より根が深いのは、日本人のマインドに強く定着してしまっている『意識』や『仕事の進め方』や『組織イメージ』のほうだろう。
問題が起きても、構造的な問題として対処せず、構造問題はそのままに、場当たり的に、『村』単位のカイゼンと、顔役/フィクサーによる『利害調整』で済まそうとする。調整が出来ても、根本的な問題は解決できていないから、必ずひずみが起きて来る。すると、『痛み』の配分が必要になる。ところが、そこでも調整は、顔役が間にはいって、『今度我慢してくれれば、次回は必ず報いる』というような貸し借りで片付けようとする。根本的な改革はずっと先送りで、全体で痛み分けしている間に組織としてはどんどん疲弊していく。考えてみると、これはまさに日本全体で起きていることと言えないだろうか。
『皆で一丸となって頑張れば必ず乗切れる』
苦境に落ちた日本企業の経営者が、金科玉条のように口にするこのスローガンも、大抵の場合、かつては機能したかもしれないが、もはや機能しないモデルに固執しているあらわれなのではないか。結局、構造改革には手をつけず、現場のカイゼンに期待し、そうすれば何とかなる、というような相変わらずの魂胆が透けて見えてしまう。
■包摂の暴力
こんな会社はごめんこうむる、とばかりに起業したり、外資系に鞍替えできる強い個人はともかく、そんな自信がない大半の人は、一度入った会社をできるかぎり辞めようとはしない。日本の場合一度会社を辞めると、次の会社には簡単には入れず、しかも、社内で不利な立場に追い込まれることはわかっている。『そんなことはない』と力説する人もいるが(そして、もちろんそうではないケースも沢山あるとはいえ)、いささかナイーブに過ぎると思う。。それが非常に極端に表面化したのが、いわゆる『ブラック企業』だろう。
企業からはじき出され、家族もいない、宗教等も特にないなど、今の日本には『包摂』が希少資源になってきていることは確かだ。だが、だからと行って、無理にでも、企業、村落共同体、宗教に所属せよ、というのは安易すぎる回答だ。ことに、もうそろそろきちんと向き合うべきだと思う。
■日本人の意識の古層にある強さの源泉
ただ、日本人のワークスタイルという点では、どうしてももう一つ語っておきたいことがある。旧来の日本の労働現場は、構造的な改革が不可欠であることは確かなのだが、その一方で、日本人の働き方は合理的ではないから、すべて解体して、数値化し、合理的に再構築すべき、というような安易な姿勢にはどこか軽薄さを感じ、このままでは日本人の持っていた『強さ』や『良さ』まで解体してしまうのではないかという相反する気持ちを簡単には払拭できない。特に強かった日本を知る人ほどそんな二律背反の葛藤を抱えていると私には思える。
日本のある年代以上の層にとって、日本の武道や芸事、あるいは丁稚奉公等、日本人が取組むことの多くには、幼少の頃から住み込みで、押し付けられる使い走りや雑役を自我を押し殺して黙々とこなし、その結果として勝ち残った一部の者にだけ、奥深い技能や神技が伝承される、という、『道』や『修行』のイメージがあるはずだ。これは普通の仕事にもあてはまり、仕事を本気で取組む究極の姿として今でも日本人の意識の古層に刷り込まれている。
実際、自動車会社の現場にも、鋳型等で、機械にもできないほどの精度をつくりこむ技能を持つ社員、という神がかった存在がいたし、かつては優れた製造現場の核にはどこにでもそのような神のような技能工がいたと聞かされたものだ。そして、彼らの技能は、現代の基準ではみな『ブラック』とも言える、理不尽で没自我的な環境を長時間耐えることでしか伝承できないと言われていた。言語化してしまっては本当に必要な暗黙知は伝授できず、マニュアルでは表現できないから、師匠や先輩の真似をして体で覚えるしかないとされていた。こう書いてしまうと、何だかフィクションと現実を混同しているように思われるかもしれないが、そんな境地がありうることを私自身、現場で見聞きしてきた経験もあり、頭から否定し去る気にはなれない。
■言語化で『希望』に
とはいえ、残念ながら、そんな驚異的な技能工は、今やただの伝説の存在だろう。だからといって、再び昔のような『修行の場』としての仕事環境を再現することには無理がある。しかも、この『道』は極めるのが難しい上に、『劣化コピー』が生まれ易く、歴史小説家の、司馬遼太郎氏が嫌悪していたような帝国陸軍の組織等、非合理な指揮のもとに将兵を大量に死なせるような組織が随所に出来てしまう。それはまさに現代の『ブラック企業』に直結しているとも言える。そういう意味では、やはり『合理的』であることを一旦は徹底することは、戦争での失敗等、日本の組織が落ちた悲劇を過去のものとして結着をつけるためにも絶対に必要であることは認めざるをえない。だが、それでも尚、驚異的な技能の伝承法が完全に消失してしまう前に、何とかその一部なりとも言語化して、実地に生かすことができないものかと、夢想してしまう。
非常に奥深い潜在力を秘めているが、同時に劣化コピーと暴走にもつながり易い、日本の労働者の深層をうまくコントロールすることは容易なことではない。だが、。そんな努力は、やはり何としても続けてみたいし、その価値も大きいと思う。できることなら『夢想』の一部なりでも『希望』としてみたいと案外本気で考えている。
少々、脱線が過ぎたようだ。このあたりの問題は、もう少し頭を整理して、場をあらためて語ってみたいと思う。