日本人が、自分を認めるのが難しい背景には、「謙虚さ」という言葉への誤解が潜んでいるのではないか?と感じることがあります。「自分を良く思うこと」に対する嫌悪感のようなものが、社会の根底に潜んでいる気がするからです。これはわたしの実感でしかありませんが、「謙虚さ」と「卑屈さ」が混同されているのではないか? と感じることもあります。
「謙虚さ」というのは本来、自分の出来るところをちゃんと知っているからこそ表現出来るものだと思うのです。「わたしはこれが得意である」と理解しているからこそ、「自分が不得意なところを認めることが出来る」し、「相手の得意なところに対する敬意が払える」。それが本来の謙虚さの背後にあるもののように感じられます。尊敬する先輩方、同世代、後輩達に共通するのは、この謙虚さです。
謙虚さの背後には、「今のようには出来なかった頃の自分」への許容や、今その状態にある人達への受容があるな、とも思います。
いささか極端に言うと、ここを取り違えた時には「わたしは出来ていないのに、あの人の出来るところを認めるのは嫌!」「何故なら相手を認めることによって、自分の出来ないことを認めないといけなくなるから!」といった、どこか卑屈な感情が沸き上がりやすい気もします。
わたしが初めて「謙虚さ」について強烈に感じたのは、前回の東京オリンピックでポスターデザイン担当された、グラフィックデザイナーの故・亀倉雄策先生とのやり取りを通してでした。
当時美術大学生だったわたしは、先生の講演会にお邪魔し、パーティにもご一緒させていただきました。質問があったのですが、なかなか勇気が出せず、パーティの間中、お声をかけることが出来ずにいました。でもとうとう先生がお帰りになる際に、やっぱりお訊ねしよう! と思い直し、「亀倉先生!」と背後からお声をかけたのです。すると先生はゆっくりと振り向いて、行く道を戻って自らわたしに近づき、丁寧に質問に答えてくださったのです。
後で先輩から「お前、あんな質問、わざわざ先生にすることじゃないだろう?!」と叱られましたし、今はもう中身も覚えていないくらですから、きっと本当に些細な質問だったのでしょう。でも。亀倉先生のとってくださった態度は、今も情景ごと覚えているくらい、鮮烈なものでした。
「本当にすごい人は、誰かを軽くあしらったりはしないのだ!」。わたしにはそういう経験となって、強く記憶に刻まれたのです。
その後、社会人になってからも同じことは起こりました。部署では怖くて聴けない質問に、快く答えてくださった方々は、全て社内外の「目立って優秀な方々」でした。どなたも本当に丁寧に優しく、わたしが解らないことを責めず、可能な限りを教えてくださいました。
すごいなと感じる方々は、いつも相手の「知りたい!」という欲求をシンプルに見抜き、共感と理解の上に、手を貸してくださっているようにも感じました。人を見下すような変な圧力は一切なく、「いやいや、こちらも勉強になったよ」と、実際おっしゃる方もいらっしゃいました。
就職活動の際にOB訪問で伺った、大手広告代理店勤務だった先輩からも、大いに学びました。「貴重なお時間を本当にありがとうございました、どうお礼をしたらいいか判らなくて」とお伝えすると、先輩は「もし君が就職をして、後輩がこうやって訊ねて来たら、その子に話をしてあげてね。僕にお礼は要りませんから、後輩に返してあげてください」とおっしゃってくださったのです。
わたしの感じる「出来る人達」は、やったことを返してくれとは、決しておっしゃいませんでした。「一流の人は違う」「一流の人は、人を莫迦にしたりしない」。わたしは、再びそう思いました。と、同時に、どうして彼らがそう出来るのか、知りたくて、知りたくてたまりませんでした。どうやったらそうなれるのか?彼らの仲間に入れるのか?何が彼らにそうさせているのか?とても興味がありました。
彼らは、いつも謙虚に見えました。彼らは、とても秀でていらっしゃる方々でした。「きっと、出来るようになればいいんだ、何とかして出来るように!」「出来るようになりたい!」わたしは「出来るようになる」ことに、こだわりました。
でも、わたしは「出来ない」人でした。部署での評価は低く、明らかに問題児でした。たまに褒められても、その言葉を素直に受け取れない程「自分は出来ない」と思っていましたし、卑屈でもあったと思います。
同じタイミングでスタートを切った入社同期は、美大生のわたしでも知っているような一流大学出身者が多く、地頭の良さを感じるテンポの良い会話が常にありました。実際、非常に優秀な人が多かったので「自分が出来ない理由」を見つけるための、比較対象には事欠きませんでした。
長いこと、わたしは「出来ない自分」を「出来る自分」にするために必死に取り組んでいたのです。わたしは自分の出来ないところを沢山知っていて、それを「何とかすることだけ」を考えていました。
ところがある時、気がつきました。わたしが一流と感じる人達(その分野でとても秀でた実績をお持ちにも関わらず、謙虚で、相手を決して莫迦にしたりせず、他人を落とすような迂闊な発言をしない人達)は、ご自身の「出来ること」と「出来ないこと」の両方を知っていたのです。
「自分の出来ないことを認めろ!」と言われたことはあっても、「出来るとことを認めろ!」と言われた事はありませんでした。出来ないところだけ認めるのはとても大変です。出来ない=ダメなこと、という公式が頭の中に出て来てしまうので、暗い気持ちになるからです。
大事なのは、「自分が出来ることを認めること」であり、それはつまり「他人の出来ることを認めること」に同義ではないかな? と思うようになると、今度は、「自分を認める言動」を自慢と受け取り、嫌がる人の存在に気がつきました。
違うのです。
出来ることを認めるというのは、同時に「自分には出来ないこと=他人の方が出来ることがある」「他人に出来ないこと=自分の方が出来ることがある」、ということを受け容れることではないのかな? と思うのです。それが自然と「謙虚さ」を生んでいるように感じるのです。
自分が自分を「否定だけ」している時、もしくは、自分が自分を「肯定だけ」している時は、人はどこかアンバランスなのかも知れません。
「謙虚さ」は、自分の出来るところと出来ないところを両方認めた時に、自然と心に表れるものなのではないか?と感じるのです。それが「自分を認める」ということなのではないか?と、思います。
わたしは長年不思議に思いながらも、自分を「良いところと、悪いところ」に分離してきました。これは「周囲に色々言われたこと」をベースに「自分が構築した認識」から起こっています。
そこには、例えば「家族のルール」や「日本のルール」のように、意識して選択する以前に覚えたものも含まれます。だから、無意識になっているものも数多くあるのだと思います。
例えば、同じ日本人でも、お風呂の入り方や身体の洗い方が家庭によって意外と違っているという事実や、お蕎麦の食べ方について、日本人とヨーロピアンの間でマナーに関するギャップがあるように、お互いが知らなければ「無神経だ!」と相手を決めつけられかねないルールもあります。
良いか悪いかは、外側の条件が変わると、簡単に変わるのです。
わたしは長年、自分が「悪いと認識しているところ」を、良くすることに集中して、必死に取り組みました。でも、そうしているうちは、いつまでも自己否定は止まりませんでした。
わたしは、物事に対してハッキリ意見を言う子どもでした。これは日本だと「失礼だ」「空気が読めていない」といった反発を受けることも多々あるのですが、海外留学中は「積極的である」と、とても暖かく迎えられる主な要因でもありました。
わたしはそれでも、多数決の原理で「自分が悪い」と思っていたのですが、冷静に考えると「ハッキリ言うこと自体」が悪い訳ではありませんでした。自分が、この人に、この場でハッキリ言いたいかどうか? を考えもせずに、ただいつもハッキリ言うだけだったから、居心地が悪かっただけなのです。問題はそこでした。
わたしは良くも悪くもないのだ、と気がついた時に生まれて来たのが、謙虚さでした。それは自分を認めた時に表れて来る、自然な気持ちだったのです。
「わたしにも、出来ることがある」。出来ることはアクセサリーを作ることだったり、文章を書くことだったり、他にも出来る方のいらっしゃることです。わたしの大尊敬する先生は、アクセサリーデザイナーとしてご活躍なさる傍ら、会社の経営者でもあります。そう、わたしに出来ることを、わたしより出来る方も、当然いらっしゃいます。
でも、それでも、良かったです。
誰かのようには、出来ないし、誰かも、わたしのようには出来ません。明らかなマネでない限り、いかに同じように見えても、そこに行き着く経緯は違うからです。外側に同じことを出来る人が居るかどうかは、問題ではないのです。
わたしにもあなたにも、出来ることがあります。そして出来ないこともあります。大事なのは、比較することではなくて、何が出来るのか、まずは、その事実を観ることなのではないか? と思うのです。
自分は毎日同じ時間に起きて寝ることくらいしか出来ない、と思う方が、もしいらっしゃるとしたら、もっと現実的になって、事実ベースで物事を捉えてみて欲しいのです。例えばわたしは病気もあり、毎日コンスタントに生活をするのがとても難しい人間です。もしそう出来たら、わたしの人生は大分違うものになっているはずです! 毎日同じ時間に起きて、決まった時間に会社へ行けるのであれば、わたしは起業をしなかったかも、とさえ思います。「誰にでも出来て当り前」なことは、本当にあるのでしょうか? こうやって、出来ないことがあるから、出来るようになることも、実際にあるのです。
出来ようが出来まいが、それ自体は「=ダメなこと」でも、「=良いこと」でもありません。ただ、ある一定の状況において「どう捉えられるか?」、そのコミュニティにおいて「どう捉えられるか?」といった事があるだけで、それは自体は、良くも悪くもないのです。
謙虚さは「自分には出来ることと、出来ないことの両方がある」とシンプルに理解出来た時、やってくる感覚だと思います。
自分にも出来るのだから相手も出来て当然だ、というのはちょっと違います。そこには自分自身の思い込みが入っている筈です。自分を基準に考え過ぎているかも知れません。「自分に出来ることがある、そして相手にだって出来ることがある」という理解は、より現実的でフラットな捉え方だと思います。
自分を認めるのが難しいのは、自分を良いと悪いに分けてしまっているからかもしれません。健全な謙虚さは、自分と他人の「出来ること」を素直に認めることによって、自然に湧き出る感覚なのではないかな? と思います。