再稼動するなら「シャブ中発電」と呼ばせていただく

3.11まで「未来のエネルギー」として持ち上げられてきた原子力に、多くの国民は酔いしれてしまっていた。3.11で酔いが醒めて猛省した。しかし、一部の人たちにとって、それは「お酒」ではなかった。酔う、酔わないではなかったのだ。つまり、「ドラッグ」だった。

■彼らにとって「原発再稼動」とは、「絶対に負けられない戦い」なのだ

みうらじゅんが、「暴走族」をなくすには、呼ばれるのがダサいネーミングに変えてしまえばいい、たとえば「おならプープー族」という名前に変えてしまえば誰もやらなくなるんじゃないか、とエッセイに書いていた。なるほどそうか、「原子力発電」も、名前を変えてしまえばいいのかもしれない。たとえば「シャブ中発電」に。

「電力供給で海外からの化石燃料への依存度が第1次石油ショック当時より高くなっている現実を考えると、そう簡単に原発はやめるというわけにはいかない」と原発再稼働を心に決めている安倍首相(1月28日・衆院本会議)。もっともらしい言葉を用意しているが、原油や液化天然ガス(LNG)の輸入「額」は円安の影響もあり増えているが、実は輸入「量」自体に大きな変化は生じていない(昨年の輸入「量」は前年比でLNGがプラス0.2%増、原油はマイナス0.6%/その現状・理由については法政大准教授・小黒一正氏のこちらの記事に詳しい)。原発を動かさないから貿易赤字になる、だから原発を、には無理がある。そもそも、彼らにとって原発再稼動とは、理論に基づくものではない。サッカー日本代表のスローガンのように「絶対に負けられない戦い」なのだ。負けられない戦いだからこそ、人々が住まう大切な土地をあれだけ汚しっぱなしにしても、「まだやる」「もう安心」「むしろ安心」と、頓珍漢に力んでいく。

■原発再稼働に先駆けて、オッサンたちのプライドが再稼働した

薬物所持で5回ほど捕まった某俳優は、その都度「もうやらない」と言ってきた。原発は、コレに似ている。原発は、一部のオッサンたちのプライドで育まれてきた。「未来のエネルギーだ」「危なくはない」「絶対に大丈夫さ」と頷き合ってきた。ダメだったかー、とオッサンたちのプライドが崩れた「3.11」。「反省しよう」「うん」「反省はもう済んだ」「だよな」「そろそろだな」「あぁ勿論」。こうして、とりわけこの1年で「福島原発事故の教訓を活かして安全性を高め......」が原発再稼働の枕詞となった。原発再稼働に先駆けて、オッサンたちのプライドが再稼働した。禁断症状で体をブルブル震わせながら、原発を「重要なベースロード電源」と位置づけ、「シャブ中発電」で再び気持ちよくなろうとしている。

「国益」という言葉が、やたらと立派な顔立ちで乱用されるようになったが、「国益」のおおよそは誰かの「私益」から発動している。原発はその最たるものだ。「国益」は辞書的には「国家的利益」を意味するが、どうやら辞書には補足説明が足りていないようで、「国益」には「国を動かす誰かのための利益」との意味も含まれるということに、事故直後から散々気づいてきたはずだった。たったの3年で、それを忘れようとしている。現政権は3月11日の記念日化を検討しているという(時事通信)。あの日の「負け」をこうして「歴史」として位置づけることで現在と未来の活力に転化しようとしている。ちょうど、「絶対に負けられない戦い」に挑む日本代表が「ドーハの悲劇」を戦いの起点とするように。

■相変わらず被災者の頬を引っぱたく曽野綾子氏の未成熟なコラム

昨年末に「『誰かを叩きたい欲求』を誘発し続ける古びた論客」と題して、いたずらに被災者の頬を引っぱたく愚論を書き連ねる曽野綾子氏に言及したが、昨日10日発売の「週刊ポスト」に寄稿した「被災者と老人の『甘えの構造』について」が相変わらず横暴なテキストだった。毎度お馴染み、「震災で見えてきたのは日本人の弱さ」だとする論旨が未成熟に炸裂する。「座って助けを待つ」だけではいけないとして、こう続ける。

「自分たちで工夫して、この非常事態をどうしたら切り抜けられるかを考えるほうが人間的ですね。大震災の時、私はその場にいなかったのですからよくわかりませんが、その夜から避難所には、食べ物を作る方はいらしたのかしら。私だったら津波が引いたら、鍋とかお釜を拾い出し、ブロックで竃を築いて、燃料はその辺に落ちている誰のものかわからない木片をどんどん焚いて暖を取りますし、高台に住む人にお米を分けてもらってすぐ炊き出しを考えますね。食料が、災害が起きたその日から届けられるなんて贅沢を言える国は、世界中にどこにもないだろうと思いますから」。

もう、どこから突っ込んでいいかわからない。突っ込むところしかない。貴方はこの3年間、何を見てきたのか。打ちひしがれて立ち上がれなくなった人たちがようやく立ち上がろうとする姿に背を向けて、いつまで持論をベタベタ舐めまわしているのか。これこそ「甘えの構造」ではないか。

■「もう大丈夫ですよ」と言いつつ、ドラッグに手を染めていく

あえて一緒にさせていただくが、曽野綾子氏のような論客にしろ、原発再稼働を推し進める人たちにしろ、「いつまでもそんなこと言ってないで」と冷静ぶる人たちが、そこらじゅうにいかがわしい栄養剤を撒いて3.11の風化を育てていく。「もう大丈夫ですよ、あんなことにはなりません」「それよりも日本人の在り方が問題」とするベクトルは、ドラッグのように原発を接種しまくったがゆえに起きてしまった悲劇を忘れさせる。3.11まで「未来のエネルギー」として持ち上げられてきた原子力に、多くの国民は酔いしれてしまっていた。3.11で酔いが醒めて猛省した。しかし、一部の人たちにとって、それは「お酒」ではなかった。酔う、酔わないではなかったのだ。つまり、「ドラッグ」だった。彼らは再び、欲しくなっている。体が震え始めている。原発が欲しくって体を震わせているシャブ中たちを気持ち良くさせるために、私たちはこの3年という切実な日々を積み重ねてきたわけではない。

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