上のタイトルだけ読んで一瞬「センター試験の問題に、クソリプとかパクツイという単語を散りばめたテキストが採用されたのか、すごいな」と思ったらそうではなく、佐々木敦氏の『未知との遭遇』(筑摩書房)の中のツイッターについて論じられている箇所からの引用で、そこにツイッター・ジャーゴンである「クソリプ」や「パクツイ」に相当する事例が出されているということだった。
↓問題文
問2で思わず笑ってしまった。『教えて君』と『教えてあげる君』の関係を記述した5つの文から正解を選ぶのだが、「これを作った人、それぞれ具体的な例を思い浮かべていたでしょ」と思えて仕方ない。いや絶対そうだ。試験会場で笑いをかみ殺した受験生もいたのでは。
著者の佐々木氏は自身の文章が掲載されたことを人づてに聞いたことを明かし、「どんな設問だったんだろ。なんだか申し訳ないですね。そもそも俺が正解できるのかという」とツイッターで反応していた。
私も去年、大学の入試問題に自著が問題文として引用された。北海道大学だったのでこちらの新聞には掲載されず知らないでいたら、5月頃から夏にかけて、駿台、代ゼミ、河合塾を始めとする全国の予備校と旺文社や教学社など参考書や問題集を作っている出版社から続々と、入試問題文のプリントと共に著作物使用許諾のお願いが来た。びっくりした。それぞれに許諾の返事を出すと、半年くらいして今度は「北大入試問題 出題内容と概評」とか「大学別過去問演習講座」みたいなテキストがドサドサと送られてくる。
こういう場合の著作権料は微々たるものだが、私のようなあまり名前の売れていない者の本を選んで下さったというだけで、有り難い。記述式なので、それぞれの予備校の先生が出した解答や解説を読むのも面白い。というか、とてもこそばゆい。
北海道大学の受験生はどのくらいいるのか知らないが、一人くらい「この文章面白い。受験終わったら本読んでみようかな」と思ってくれないかなー‥‥などとムシのいいことを考える。そして次の瞬間には、入試問題で出会った文章なんて厭かもね、特に設問が難しいとね‥‥などと想像する。
ちなみに使用されたのは『アート・ヒステリー』の冒頭近く。やや長いが引用してみる。
ピカソは長らく「わからない絵」の代名詞でした。
かなり前ですが、二科展などの団体展の展覧会場で、半抽象的な油絵を見ながら観客が「こういうピカソみたいな絵はよくわからんな」と言っているのを耳にしたことがあります。あるいは、「あの先生は人物画専門だけど、ちょっと抽象的なんだ」「どんな感じ?」「うーん、なんか‥‥‥ピカソみたいな」。ニュース報道で、強盗の施錠破壊行為の道具を想像して「バールのようなもの」とよく言いますが、それと同じくらいの便利さで使われる「ピカソみたいな」。(略)
優れた絵とは高度なテクニックを駆使し、真に迫るリアルさと迫力で対象を描いたものだ、という考え方があります。あるいは綿密な計算のもとにやはり高度なテクニックを駆使して、崇高な美や言葉にできない内面を表現したもの。そうしたものこそ修練を経たプロの絵だと信じる人にとっては、ピカソの絵はどこがいいのかわからない。形はめちゃくちゃだし色は強烈だし、見ていて落ち着かない。「プロの修練の跡」が見当たらない。みんなすごいって言うけど、ほんとに心の底からそう言ってるの? ピカソだとわかってるから褒めてるだけじゃないの? と思っている。
それに対し、「いや、ピカソは十代の頃にもう師匠より上手かったんだよ」とか「青の時代はデッサン力がすばらしい」などとフォローする人がいます。一部でわけのわからん絵の代名詞のごとく言われているピカソだが、実はスーパーテクニシャンであって、その技術をあえて使わず、新しいものの見方を取り入れたからすごいのだ。そう説明されると、わからなかった人も「そんなに上手く描けるのにわざわざあんな絵を描いたのは、まあ天才のなせる業なんだろう」と自分を納得させる。
どちらも「ピカソはもともと写実的な絵が上手い」という点に一定の安心感を見出している点では同じです。写実的な絵の上手さ、巧みさという専門技術への憧れ、信頼は大きいのです。それに比べ、キュビスムといった特殊なものの見方、方法論は説明されないとわかりにくい。多くの人は再現的な絵を見慣れている上、色や線や形といった感覚に直接訴えかけてくる要素がどのような方法論の元に組み立てられているか、そのことにどんな意味があるかについての知識を得たり考えたりする習慣がないからです。
ところで「ピカソはもともと写実的な絵が上手い」と同じくらい影響力をもっているのは、「絵ってものは自由に見ていい」「対象を見える通りに描かなくてもいい。感じたように自由に描けばいい」という考え方です。この考え方は子ども向けの美術教育に根強くある一方、アーティストの言葉のわかりやすそうなところだけをメディアが切り取って流したりするためもあってか、驚くほど一般に浸透しています。自分にはよくわからない作品を前にした時、「自由に見ていい」なら、「作者は何を言いたかったんだろう」「どういう考え方で絵を作っているのだろう」と悩むこともありません。そして絵は「自由に描けばいい」なら、対象に似ていても似てなくても関係ない。
従って、ピカソも往々にして「自由」というキーワードで解釈されます。ピカソへの疑問と同様、ピカソの受容も極めてイメージ先行なのです。皆が当たり前としている固定したものの見方に囚われない、無心な子どものような感性。子どものような「自由過ぎる」描線や色使い。そういう観点からピカソに憧れる。「子どものように描きたい」と言ってそれを実行しようとしたピカソ。彼の名は、常人の及ばぬような自由さを発揮できる個性的なアーティストのシンボルとなっています。
しかし、写実を極め、後にそれを捨て去って新境地を開くというような過程を踏むのは大変だし、回りくどいし、時間もかかります。じゃあ最初からピカソみたいな落書き風の感じでいったらどうだろうか。「自由」と「個性」に憧れる人がそう思ったとしても仕方ない。
こうして巷では、ピカソの編み出したさまざまな方法論より、絵の奇抜さ、大胆さといった"テイスト"、見かけの印象の方が「ピカソ的」なるものとして流通します。対象の外観のかたちや色に囚われることなく、「大胆不敵」「自由奔放」に絵筆やペンを走らせたものがピカソっぽい。その「ピカソ的」なるものは、「りんかく線がゆがんでいたっていいさ人間だもの」という考え方を好む人にも歓迎される。
テレビ番組の『誰でもピカソ』というタイトルは、専門的な勉強などしていない人でもアーティストになれるという意味を含んでいました。「誰でもミケランジェロ」とか「誰でも北斎」は言いにくい。明らかに敷居が高い。そこでは厳しい修練と高度な技術が要請されそうです。でも「ピカソ的」なものは枠に囚われない「自由な発想」と「個性」がポイントで、それなら「なんか自分でも描けそうな気がする」のです。実はそれが一番難しいことなのですが。
今、ピカソもどきなイラストやデザイン、絵画はどこにでもあります。ピカソは恐ろしく早熟で絵の上手い画家だったけれども、ピカソもどきはいわゆる上手さ、達者さとは逆のベクトルを志向する。そのうちわざと無骨な線を引き、わざとグロテスクに形を崩し、わざと下手なベタ塗りにするようにもなる。演出された放逸、素朴、天衣無縫。ヘタウマ感を前面に出した、もはや「自由」でも「個性的」でもない作品。「ピカソ的」なるものは既に一つの型となっています。(略)
ピカソの革新性と類い稀な"野蛮さ"は、岡本太郎など一部のアーティストには強く訴えるものがありました。しかし近年再評価の気運の著しい岡本太郎も、生前はどちらかというとトリックスター的扱いで、大阪万博の『太陽の塔』は当時、文化人たちから悪趣味だと散々不評を買いました。ピカソテイストはあちこちにあるけれども、日本人でピカソにもっとも接近した画家岡本太郎に対しては好き嫌いが激しく分かれていた。
つまりこの非西洋的環境の中では、ピカソそのものが受容されたのではなく、「ピカソ的」なるものが一つの趣味として薄まって広がったのです。強烈なオリジナル(=アート)より口当たりの良い加工品(=文化)が好まれるのです。アートは芸術だから最初から文化の一つではないかって? 少し違います。近代以降のアート、芸術は、社会や共同体に認められた価値体系である文化にとっては「異物」だった。逆に言えば、そうやって登場してきたアートが、やがてその社会の中で受容され広がり定着したのを文化、あるいはまとめて「芸術文化」などと言う。「芸術文化」は社会制度で保護されます。
しかしややこしいことに、世の中には最初から文化の顔をしているアートの方が圧倒的に多い。そして、ピカソから「ピカソ的」なるものまでひっくるめてアートと呼ばれている。なんだか錯綜していますね。こうした中で「アートを理解する」のはなかなか難しいことだと思います。
『アート・ヒステリー 何でもかんでもアートな国・ニッポン』(大野左紀子、河出書房新社、2012)p.17~22
試しに自分も解いてみた。
問三 傍線部Bの「『りんかく線がゆがんでいたっていいさ人間だもの』という考え方」に対して、筆者はどのように考えているか。三◯字以内で説明せよ。
・私の解答
「自由」と「個性」の意味をはき違えているバカは大嫌いである。(30字)
答え合わせをしてみた。
・代々木ゼミナールの解答*1
見かけの印象でピカソが表面的に受容され、違和感を抱いている。(30字)
・河合塾の解答
真の自由な表現をせず、無秩序を目指す作品を賞揚するもの。(28字)
‥‥‥なんかちょっと書き方を間違えたみたい。部分点も貰えるかどうかあやしい。
●追記
問三以外の記述式問題は以下のようなものだった。
問四 傍線部Cの「ピカソそのもの」と「『ピカソ的』なるもの」との違いを、一〇〇字以内でピカソに即して述べよ。
問五 傍線部D「『アートを理解する』のはなかなか難しい」のはなぜか。本文の論旨をふまえて八〇字以内で述べよ。
(2015年1月18日「Ohnoblog2」より転載)