休みの日の朝、犬を車に乗せていつもの川辺に行った。川沿いに細長く延びる緑地公園。先週は満開だった彼岸花も終わり、木陰に入ると空気がひんやり冷たい。一人二人、散歩の人がいる。
川辺の砂地に降りた。10ヶ月になったこの犬にとっては、初めて踏む水辺の砂地。初めて間近に見る川。ひたひたと足下に寄せる水を珍しがっている。でも足を入れる勇気はない。あまりにも水がたくさんあるから。
流木を拾って1メートルくらい先の水面に投げ「取ってきて」と言うと、足踏みしながら近くまで漂ってくるのを待ち、恐る恐る二、三歩水に入って、へっぴり腰で取った。
流木を抱え込んで遊んでいる犬の隣に腰を降ろし、ぼんやりと川の方を眺めた。
満々と水を湛えてゆっくりと流れていく大きな川。夏の頃より緑の勢いが落ち着いた向こう岸の木立。その上の堤防を行き交う車に小さく反射する光。ずっと遠くに少し靄の掛かって見える低い山々。薄青の空。
足元に眼を転じると、砂に塗れた自分のスニーカーと、犬の前脚。砂地に生える幾種類かの地味な草。湿った砂地。
目を閉じた。遠くの車の音と鉄橋を渡る列車の響き。近くの樹木の枝葉のざわめき。水が微かに打ち寄せる音。犬が流木を齧る音。水の匂いと草の匂い。傍らの嗅ぎ慣れた犬の匂い。
このまま、時間が止まらないかな、と思った。
秋の日に、川辺で犬と二人きり、ぼんやりしたまま死ねば幸せ(‥‥‥何となく七五調)。
「ここでおまえの人生は終わりだ」と言われたら素直に受け入れられるかもしれない、という自分にしてはちょっと珍しい気分。それが1分くらい続いて、徐々に消えていった。
ファウストが、「時よ止まれ、汝は美しい」と自分は言うだろうという時に想定していたのは、壮大な理想だった。それと比べるのもアレなくらい、私の願いは矮小だ。こんなんじゃ天使は舞い降りてこない。THE END に悪魔の高笑いが響き渡るパターン。
いやちょっと違った。向上心も苦悩も中途半端な人間の前に、メフィストフェレスが現れるわけがないのだ。そもそもの話として。だから私は男グレートヒェンにも出会わなかったし、ヴァルプルギスの夜も体験していないし、壮大な理想を描くような人間にもなっていない。たぶんこれからもそれはない。
犬のつけた水辺の足跡は、しばらくしたら半分くらい消えていた。この世界に刻み付けられてはやがて消えていく無数の痕跡の一つ。犬の足跡も、犬も、私も。
土手を上り、また犬を車に乗せて堤防の道を走り、途中から降りてツーバイフォーと古い民家の並ぶ田舎町の街道を抜け、シャッターが半分以上閉まっている商店街を通って自宅に帰り、犬におやつをやってスニーカーを洗った。
(死ぬまで、なるべくだらだらと、すごく好きなものを時々誉め称え、普通に好きなものには黙って寄り添って、嫌いなものには適度に寛容に、すごく嫌いなものは無視して、生きていきたい。)
(2014年10月1日「Ohnoblog2」より転載)