ブラック企業にせよ、異常な就活戦線にせよ、あらゆる労働問題のキモは「そんなん言うなら辞めます」と労働者が言えないことだ。マクロでの処方箋は、人手不足を引き起こすほど景気を加熱させること。ミクロでの処方箋は、企業に頼らなくても生きていけるよう収入源を分散させること。これしかない。
そもそもブラック企業とは何だろう?
様々な定義があるだろうが、私は次の3つの条件を満たす企業のことを言うと考えている。まず社員の自由を奪うこと。そして社員の権利を侵害すること。さらに社員の人格を否定することだ。
不況時には、すべての企業が多かれ少なかれブラック化する。
まず確認したいのは、雇用契約が労使の対等な立場で行われるとは限らないことだ。たとえば研修として新卒社員を軟禁するのは明らかな自由の剥奪だ。が、よほど懲罰的な研修を行わない限り、単なる軟禁状態が問題視されることはない。なぜなら「新卒社員は自由な選択肢の中から軟禁のある企業を選んだ」と見なされるからだ。
ところが不況時には、この「自由な選択肢」が著しく狭くなる。新卒社員は自由の剥奪を甘受するしかない。雇用契約は、自由で対等な立場から結ばれるとは限らない。他に収入源の選択肢がないのなら、労働者は多少の不満には目をつぶってしまう。企業側から無茶な命令をされたときにも「そんなん言うなら辞めます」と言えなくなるのだ。
1950年代には働く人の5割強が自営業者だった。被雇用者は4割弱しかいなかった。ところが現在では被雇用者は9割に届こうとしている。「雇われて生きる」のが当たり前になった社会は、やはりどこかおかしい。個人の自由や幸福追求が踏みにじられても、誰も、何も感じなくなるからだ。
たとえば単身赴任のせいで、生まれたばかりの赤ん坊と会えない父親。遠隔地への配属のせいで、結婚を約束した恋人と会えない新入社員。そんなのありふれているし、ガマンしなさいと大人はいう。それが人生なのだ、と。
だけど、そんなの本当はおかしいはずだ。
愛はカネよりも尊いはずだ。
これを当然だと感じること自体が、「雇われて生きる」のが当たり前になった時代の弊害なのだ。普遍的な人生観などではなく、社会情勢によって刷り込まれた一時的な価値観にすぎない。
たかが──そう、「たかが」だ。──たかが会社のために、なぜ個人が苦しまなければならないのか。なぜ個人の幸福追求と企業の利益追求を一致させて、ともに笑うことができないのか。なぜ個人の自由が、こんなにもかんたんに踏みにじられるのか。なぜ誰も「おかしい」と言わず、堪え忍んでしまうのか。
だから私は「おかしい」と言おう。
単身赴任の存在が、本当はおかしい。
遠距離恋愛の存在が、本当はおかしい。
雇用主から無茶を言われたときに「いやです」と言えないことが、本当はおかしい。
クビを切られたら路頭に迷うことが、本当はおかしい。
「あなたはこの会社にどんな貢献ができますか?」と訊かれるのは、本当はおかしい。本来なら逆であるべきだ。その企業で働くことで、個人の人生がどれだけ豊かになるのかを問うべきだ。
いかなる経済的理由を以てしても、個人の自由を否定することはできない。個人の権利が剥奪されてはならない。人格が否定されてはならない。自分の愛する者のためでないかぎり、人は涙を流してはならない。金銭的な理由で涙を流すようなことがあってはならないのだ。
貧困から解放されると、個人の自由は拡大する。昭和の時代に「雇われて生きる」のが当たり前になったのは、所得を増やして自由を拡大するためだった。自家用車に乗る自由、白物家電を揃える自由、マイホームに住む自由。そういう自由を獲得するために、20世紀の労働者はそれ以外の自由を手放した。
だが今はもう昭和ではないし、20世紀でもない。
私たちは所得のみならず、それ以上の自由を要求していいはずだ。
個人の自由を拡大するために、まず政治には好景気を求めるべきだ。GDPやインフレ率だけでなく、有効求人倍率や失業率、あるいは鬱病の発生率などをKPIにすべきだろう。
たとえば日本人の生活水準が著しく向上して一億総中流を達成したのは、1960年代後半から1970年代前半にかけてだ。この時代の有効求人倍率は平均すると1.2ぐらいあり、圧倒的な「売り手市場」だったのが分かる。バブル崩壊以後、これほどの高率は記録されていない。個人の自由を拡大するためには「売り手市場」を維持することが重要だ。少なくとも有効求人倍率が1.0を下回ったら、私たちは政治の無策を批判すべきだ。
また個人の自由を拡大するためには、一人ひとりが複数の収入源を持つことも重要だ。1つの職場で耐えがたい苦痛を与えられたときに、すぐに別の収入手段へと逃げられること。もしもすべての労働者がそうなれば、企業はブラックな要求をできなくなる。
このブログでは以前から、義務教育への「簿記」の導入を提案している。
人気資格のなかでも、簿記だけは異質だ。英語は喋らなくても生きていけるし、秘書の資格などなくても困らない。しかしカネが無ければ生きていけない。そして簿記を知らなければ、効率よくカネを稼ぐこともできない。
近現代の簿記は、ルネサンス期のイタリアで完成した。簿記には数百年の歴史があり、日本でも明治時代には多くの小学校で簿記を教えていた。簿記は会計学の入り口であり、会計学は経営の入り口だ。日本では義務教育から簿記が取り除かれてしまったために、起業のハードルが高くなり、副業を持つのが難しくなり、雇われるのが当たり前になってしまった。
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「そんなん言うなら辞めます」と言える労働者に対して、企業は無茶な要求ができない。人格を否定できないし、人権を侵害できない。労働者の自由を制限する場合にも、細心の注意を払うようになるだろう。21世紀に生きる私たちは経済的豊かさはもちろんのこと、さらなる自由を要求していいはずだ。
だから、「そんなん言うなら辞めます」と言ってしまおう。
だから、「そんなん言うなら辞めます」と言えるようになろう。
【参考】
(2014年3月28日「デマこいてんじゃねえ!」より転載)