いわゆる「衆愚政治」を嘆く人がいる。
かしこさは人それぞれだ。私たちの生きる社会は、ごく少数の「かしこい人」と圧倒的多数のバカで構成されている。かつて民主的な選挙は一部の高額納税者に許された特権的な行為だった。しかし民主主義が一般大衆に門戸を開いたいま、政治の実権を握っているのは圧倒的多数のバカだ。したがって政治が衆愚化するのは当然の帰結だ、これが民主主義の限界だ――と、ため息を漏らす人がいる。
これは、とあるトークイベントで耳にした議論だ。
誰の、どんなイベントの意見だったのかは、このブログでは伏せよう。論理的にも倫理的にも問題のある考え方だからだ。論理的な問題点は後述するとして、倫理的な問題は言うまでもない。「民主主義をつき詰めれば衆愚政治になる」という主張は、「政治はエリートだけにやらせろ」と主張しているのと同じだ。生まれてこのかた私たちがすり込まれてきた「万人に政治に参加する権利がある」という考え方を否定してしまう。
しかし「民主主義を否定する」のは、なかなかチャレンジングな議論だ。頭の体操としてとても面白い。倫理的な是非はわきに置いて、少し考えてみたい。
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これからの時代、ベストセラーを書くのはかしこい人間ではない。
一昔前までは、「かしこい人がベストセラーを書く」という状況が成立していた。これはマスメディアを牛耳っていたのがエリート層―――受験戦争を勝ち抜く程度にはかしこい人々―――だったからだ。凡庸な人間が同じぐらい凡庸な人間に発信する機会は、それこそ床屋政談ぐらいしかなかった。
私たちは経験的に、ヒトのかしこさにばらつきがあることを知っている。正規分布のグラフを思い浮かべてほしい。ヒトのかしこさが正規分布を描くとしたら、グラフの真ん中の、山がもっとも高くなる部分の層にウケた本がベストセラーになる。そして一昔前までは、凡庸で平均的な圧倒的多数のバカに向けて、一握りの「かしこい人」が言葉を発していた。山のすそ野の少人数が、山の高いところを狙って弾を撃っていた。
しかし時代は変わった。
もはや情報発信は、知的エリートの特権ではなくなった。私たちのような凡庸な人間が、同じように凡庸な人間に向けて情報を発信できる。だから、これからの時代にベストセラーを書くのは知的エリートではない。平凡で、ちょっぴりバカな、圧倒的多数の私たちにこそチャンスがある。ケータイ小説やボカロ小説がその象徴だろう。
たとえばソーシャルゲームには「知的エリートがカネを巻き上げている」というイメージがある。山のすそ野の「かしこい人」たちが、最新鋭の統計技術を用いてボロ儲けしているというイメージだ。たしかに、これは一面の真実なのだろう。しかし一方で、ユーザーと似たような感性の持ち主が、分析や論理性などすっ飛ばして「えいやっ!」と決めたアイディアが上手くいく場合も多いという。少なくともkpiを眺めているだけでは『パズドラ』は生まれなかっただろうし、ブレイクスルーをもたらしたのは消費者目線の感性だったはずだ。
バカに選ばれるエリートの時代は終わった。これからは、バカに選ばれる凡庸なやつの時代が始まる。
同じことが民主主義にも言える。
納税額も性別も関係ない普通選挙が日本で始まったのは、GHQによる民主化を受けた1945年以降だ。日本列島にヒトが暮らすようになったのは1万数千年前、魏志倭人伝の時代は1700年前。明治元年は145年前。くらべて日本の普通選挙の歴史は70年もない。日本であまねく一般大衆が参政権を得たのは、じつはかなり最近だ。
民主主義が一般大衆に門戸を開けば、圧倒的多数のバカが政治を左右することになる。結果として政治は衆愚化し、全体最適を達成できなくなる。それでも戦後日本の政治がそれなりにうまくいっていたのは、高度成長と安定期、バブルがあったからだ。バブル崩壊後には大衆受けするリーダーが取っかえ引っかえ選ばれるばかりで、建設的な政策はあまり実行されてこなかった。ハコモノ行政は利権を維持しようと躍起()になっていたが、ここでいう「建設的」とはそういう意味ではない。
では、なぜ民主主義は一般大衆に開かれたのだろう。
それは民主主義が、必ず「啓蒙」とセットで語られていたからだ。夢見がちな近代ヨーロッパの思想家たちは、ヒトはきちんと教育をすればちゃんとかしこくなると信じていた。だから「啓蒙」をほどこせば、衆愚政治に陥()ることはないと考えた。
しかし私たち人類は、あまりかしこくなかった。
政策を一つひとつ吟味して投票先を選ぶのは難しい。私たちの大多数は、政治の専門家でもなければ経済の専門家でもない。そもそも人には得意・不得意があって、みんなで同じ作業をするよりも分業したほうが効率がいい。これは知的な作業でも同じだ。高度な政策議論ができるほどの知識をすべての有権者に求めるのは、効率的ではないし、現実的でもない。
政治が一般大衆に開かれれば、大多数のバカが実権を握る。
啓蒙をしても、人類はあまりかしこくならない。
だから民主主義が行き着く先は、衆愚政治だ。
これが民主主義の限界だ。
......と、そのトークショーの論者は主張していた。
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仮にこの主張を正しいとして、話を続けよう。
民主主義の限界を認めるとして、では、どのような社会を作れば衆愚政治を回避できるだろうか。私たちは今さら絶対王政の時代には戻れない。「一般大衆が参政権を持つ」という建前()を守りながら、全体最適を達成し、社会全体の利益を増すにはどうすればいいだろう。言い換えれば、バカに選挙権を与えたまま、政治をバカの手から取り上げるにはどうすればいいか。
答えはゲームにあると、私は思う。
現代社会は「罪を犯したものに罰を与える」のが基本ルールになっている。そして、何を罪とするのかを、知的エリートが決めている。人間の行動をコントロールするのに「罰」は極めて効果的だ。しかし反面、バカからの強い反発を受ける可能性がある。理不尽な税制、理不尽な刑罰......過去の民主主義的な革命は、理不尽な「罰」が原因になって引き起こされてきた。
ゲームでは逆だ。罰ではなく、報酬によってプレイヤーの行動をコントロールする。
とくにソーシャルゲームの世界では顕著だが、ユーザーの離脱率が高い地点()の少し先に報酬を設定して、より長く遊ばせようとする。報酬によってユーザーの行動をコントロールしているのだ。罰を与えるのは、ただの離脱ポイントになってしまう。
「罪を犯した者に罰を与える社会」から、
「善行をなした者に報酬を与える社会」へ。
知的エリートの決めるものが「罪」ではなく「善行」であれば、バカからの反発は起きづらいだろう。そして同時に、「罰」ではなく「報酬」によって人々をコントロールすることができれば、政治を知的エリートの手に取り戻せる。社会は衆愚政治から逃れられる。
報酬によって人間集団をコントロールするのは、決して新しい発想ではない。営利企業や宗教団体では当たり前に行われてきたことだし、国家にも褒章といった仕組みがある。善行をなした者に報酬を与える社会へのシフトチェンジは、決して難しくないはずだ。
そして「報酬による人間集団のコントロール」を突き詰めれば、まるでソーシャルゲームのような社会になるかもしれない。
たとえばCall of Duty 4: modern warfareは、FPS未経験のプレイヤーを引き込むことに成功して大ヒットした。このゲームは、上手い人だけが目立てる従来のFPSとは決定的に違っていた。「キルカメラ」「キルストリーク」といった、下手な人でも瞬間的にヒーローになれる仕組みが組み込まれていた。ソーシャル要素だ。
また"FarmVille"のような農園運営系のゲームでは、作物を放置すると農園が無惨に荒廃してしまう。しかも、荒廃した農園をほかのSNSユーザーに見られてしまう。これがプレイヤーに恥の感情を抱かせ、より真剣に遊ぼうという動機をかき立てる。ソーシャル要素だ。
そしてLINEでは「ほかの人よりちょっと可愛いスタンプを使いたい」という感情が、莫大な売上げをもたらした。
ソーシャル要素は、人の行動をコントロールするのに極めて有効だ。「ソーシャル」や「ゲーム」で蓄積された知見を用いれば、「善行に報酬を与える社会」の究極の姿を実現できるはずだ。
たとえば税金は、現在のような強制徴収ではなく、ガチャのような何かに課金させる仕組みになるかもしれない。たとえば労働は、ソーシャル要素を報酬として与えることにより、低賃金や格差に不満を感じさせないようにできるかもしれない。
それは知的エリートに高度に管理された全体主義的な社会だが、一般大衆はそのことに気がつかないだろう。
DAUのようなものとして人口動態を眺めて、課金率・ARPPUという形式で税収額を管理する。未来の"ビッグブラザー"は、きっと、そんな仕事をしている。
※あわせて読みたい
翻訳記事:ソーシャルゲーム革命‐スパ帝国
【補足/もしくは自己反論】
今回の議論は倫理的な問題だけでなく、じつは論理的にも問題がある。
政治が一般大衆に開かれれば、大多数のバカが実権を握る。
啓蒙をしても、人類はあまりかしこくならない。
だから民主主義が行き着く先は、衆愚政治だ。
これが民主主義の限界だ。
......だから民主主義はもうダメだ。
この主張には、論理的な穴が2つある。
1つは「なぜ衆愚政治はダメなのか」を充分に説明できていない点だ。たしかに衆愚政治は実利的な問題を持っている。生活保護バッシングや数々の炎上事件を見れば分かるとおり、全体最適をうまく達成できず、税制や再分配の仕組みが非効率なままになってしまう。結果として経済は沈滞しがちになり、不公平・不平等がはびこってしまう。これが衆愚政治だ。
しかし、なぜそれが悪いのだろう。
多少の実利的な問題よりも「自由」「平等」のほうが大切である......と主張することは論理的に可能だ。たとえば死は人間にとって最大の経済的損失であるが、名誉や思想のために命を捨てた人は数知れない。実利的な損失を列挙するだけでは、思想的・哲学的な価値は否定できない。
民主主義の行き着く先が強烈な衆愚政治だとしても、みんながそれを選んだのなら仕方ない。そう考える人がいてもおかしくない。『二都物語』で描かれた革命直後のパリのような、無秩序と暴力とかけがえのない自由の世界が来るとしても、「みんなで選んだ」ならいいではないか......と主張することはできる。「参政権」を経済的便益よりも上位の価値と見なすなら、論理的な破綻なく衆愚政治を肯定できる。
またもう1つの問題点は、「人類はかしこくならない」という仮定だ。
たとえば病気になったとき、現代日本人の大多数は加持祈祷には頼らない。識字率はわずか50年前と比べても世界中で向上している。そもそも人類の発展とは、私たちがかしこくなってきた歴史ではないか。TED、Wikipedia、YouTube......情報技術の進歩により、私たちの知的レベルは今まさに爆発的に向上しているはずだ。震災で社会インフラが破壊されたとき、私たちは冷静に助け合うことができた。もしもいまフランス革命のような劇的な政変が起きても、日に何十人もギロチンにかけるような狂気の世界になるとは考えにくい。私たちはかしこくなっているのだ。
たしかに知性の向上は牛歩であり、10年~20年程度の短いスパンでは変化を感じられないのは認めよう。しかし、だからといって、バカは救えないと判断するのは答えを急ぎすぎている。歴史をふり返れば、「人類はかしこくならない」という仮定は極めて疑わしい。
自由や参政権は、何ものにも代えがたい価値だと見なせること。
人類がかしこくならないという仮定が疑わしいこと。
以上の2点の論理的瑕疵があるため、「民主主義はもう限界でダメだ」と主張するのは、じつはけっこう苦しいと思う。
(※この記事は2013年7月7日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました)