15歳だった。私の通っていた高校は自由な校風が"売り"で、制服さえも無かった。生徒手帳には「アルバイトは"推奨しない"」という控えめな言葉が書かれていて、多くの生徒が勉強そっちのけで働いていた。ユニクロを脱ぎ捨てて、ブランドものに着替えるためだ。私が初めてのアルバイト先に選んだのは、幹線道路沿いのイタリア料理店だった。大手のファミレス・チェーンが出資していて、広い駐車場と数えきれないほどのバイト店員を抱えていた。あの日の採用面接のことを、たぶん私は忘れない。
怖かった。
履歴書と生徒手帳をカバンにつめて、面接の30分前にはレストランに到着していた。けれど、開店前の薄暗い店内におののいて、結局ぎりぎりまで近くのコンビニで時間を潰した。
親でも先生でもない、大人。
まったく言葉を交わしたことがない大人。
そういう大人に見つめられることが怖かった。使いものになるかどうか、判断されるのが怖かった。
何より、「お前なんかいらないよ」と言われることが、怖かった。
私は負けず嫌いなのだと思う。
なにしろ中学生のころの私は、負け知らずだった。テスト前に勉強したことなんて一度もない。必死で頑張って、それでも成績が上がらなかったら、それは"負け"だ。勉強しなくても成績は中の上を維持できたし、敗北を味わうぐらいならその位置で満足できた。
高校も、わざとレベルを下げて受験した。体育の成績は絶望的に悪かったけれど、音楽や美術なら誰にも負けなかった。校庭や体育館を走りまわる男子生徒を、(脳筋なやつらw)と胸の底でバカにしていた。
最初から勝負を降りているのだから、負けなくて当然だ。
そんな私が15歳になり、アルバイトを始めることになった。お小遣いを稼ぐためには、採用面接という勝負を避けられない。そして愕然としたのだ。我が身をかえりみれば、自分の手の中にあるのは子供じみたプライドだけだった。カネを受け取るに足る"能力"を何一つ持っていなかった。
たとえばスーパーのレジで、サイフがすっからかんだと気づいたときの絶望感。あるいはツタヤで、借りたいDVDがすべて貸出し中だったときの虚無感。それらを1000倍に濃縮したような感覚に打ちのめされて、私はレストランの前で立ちすくんだ。
15歳の私は子供で、無力だった。
初めての採用面接は、それを私に気づかせた。自分に"できないこと"をリストアップすれば切りがないのに、"できること"のリストは2、3行で終わってしまう。小学校で"子供の権利条約"などというものを教わり、子供は社会の一員だと学んだ。けれど実際には、自分は社会に関わったことなどただの一度も無かったのだ。自分の幼さに気づき、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
働いたら、自分の無力さと向き合うことになるのではないか。働いたら、自分がこの世界にとって無価値だと気づかされるのではないか。たかがファミレスのアルバイトでも、15歳の人間に再考をせまるには充分だった。働くのが、怖かった。
いつまでもレストランの前で突っ立っていられない。こつこつと貯めていたお年玉は底をつき、アニエス・ベーの新作を手に入れるにはアルバイトは不可避だった。物欲は恐怖を超克した。私は身を縮めながら自動ドアをくぐり、薄暗い店内に足を踏み入れた。
結論からいえば、あっさりと採用された。
私を出迎えたのは40がらみの男で、この店のマネージャーだと名乗った。チェックリストのようなものを手に、次々と質問を投げかけてきたけれど、どれもイエスかノーかで答えられるほど簡単だった。最後に給料の振込先の口座を書かされて、謎の書類に印を押して、面接はあっという間に終わった。(学校の健康診断だって、もっと丁寧に話を聞くぞ?)と思いつつ、私はホッと胸をなでおろした。
高校生のアルバイトなんて、いわば使い捨ての弾だ。『スターウォーズ』に登場するドロイド兵のように、規格に適合する人を集めているだけだ。翌週の土曜日から出勤することを約束して、私は店を出た。前日にあまり食べていなかったせいか、急に空腹を感じた。
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働くことは、人に自信を与える。
自分が必要とされていることを、この世界で生きていてもいいということを、カネという分かりやすいもので理解できるからだ。仕事があるということは、この世界に自分の居場所があるということだ。羊は草を食み、虎は獲物を捕らえ、ヒトはカネを稼いで生きている。
高校時代の自分にメールを送ることができたなら、もっと色々なアルバイトをしておきなさいと伝えたい。十代ならではの生意気さで大人をバカにしていたけれど、ほんとうは大人のことをよく分かっていなかった。
大学時代の自分にメールを送ることができたなら、早いうちから仕事を見つけなさいと伝えたい。ありきたりな「シューカツ」という商品を消費する立場に甘んじるのではなく、自分から興味のある業界に飛び込んでみなさい、働いてみなさいと伝えたい。大学生ならではの頭でっかちで社会を分かったような顔をしていたけれど、私の知っている社会は針の先ほどの広さしかなかった。
誰にだって、やりたくないことの1つぐらいはある。必要とされたくない場所というものがある。そういう場所で働き続けると、ヒトはいつか死ぬ。肉体的には生き長らえても、心は生きていられない。ただ息をして、食べて、排泄するだけの装置に成り下がる。そんなのはイヤだ。
どうせなら、自分の望む場所で生きていきたい。認めてもらいたい人たちから、必要とされたい。そんな仕事なら怖くもなんともない。
そういう生き方を、しあわせと呼ぶのだ。
(2012年10月12日「デマこい!」より転載)