医療問題ジャーナリストの熊田梨恵と申します。私は2015年、長男を出産後に「産後うつ」を経験し、初めてその苦しみと孤独を思い知りました。
仕事柄「産後うつ」という言葉は産婦人科医から聞いたことはありましたが、まさか自分がそうなるとは思いませんでしたし、妊娠中は誰からもそんな大変なことがあるとは聞かされませんでした。
私の場合は、産後うつや睡眠不足、片頭痛などから日常生活が送れなくなりました。そんな私がどうやって産後うつの苦しみと向き合い克服していったのか。このブログでは、産後うつ経験者として一つの体験談をお伝えしたいと思います。
前回までは、①初めての赤ちゃんと向き合うことの不安と孤独 ②産後うつの苦しみ ③なぜ子どもの泣き声がつらいのか、について書きました。
今回は、産後うつになる中で振り返った幼少期の心の傷について書いてみます。
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そして子どもは2か月、3か月と成長していったが、一方の私は回復するどころかどんどんと精神的に追い詰められ、体調は悪化し、一昨年秋ごろからはこれまでの人生で最悪の体調不良を経験した。
前述したようにほぼ寝たきりとなり、トイレは這っていき、這うのも無理な時は子どものおむつに用を足したことさえあった。
固形物は食べられなくなり、胃ろうの方が摂取する流動栄養の「ラコール」かヨーグルトをすすった。噛み砕き飲み込むことに力がいるということを、初めて知った。
半身を起こす力も入らず、寝たきりの高齢者とはこうやって筋肉が弱り、廃用症候群を起こしていくのかと天井を見ながら思った。片頭痛も頻繁で、そのころには何を見るのもつらい状態になり、パソコンやスマホの光や細かい文字は厳しかった。
最低限でのやりとりでしかスマホは使えなかったので、ますます知人友人とのやり取りも減り、孤独に追い込まれた。
何か大きな病気があったわけではない。産後鬱や慢性的な睡眠不足、片頭痛などから体力が低下していき、さらに自分でそういう自分を否定し、子どもを大切にしなければと脅迫的に思うがあまりに、どんどん追い詰められ、弱っていった。
育児家事どころか日常生活が不能だったため、多くの方々に助けて頂きながら、この時期を過ごした。助けて頂いた方々に、心から感謝している。
そして話すことすらつらくなり、「もう本当にダメだ」と思った時、自分の奥底と向き合わざるを得なくなった。
自己否定してしまう自分を、なぜそうしてしまうのか、自分自身と対話するしかここから這い上がる手段はなかった。
ただでさえ弱っている心身で、自身を見つめるのは相当につらい作業だったが、その時私は必然的に出会う方々と出会い、育児休暇を取ってくれた夫の助けを借り、実家に帰って自分が苦手だった両親から支えてもらいながら、自分と対話し続けた。
私は周囲の大人から、「いい子」と言われて育った。
母親からは「梨恵ちゃんは育てるのに全く手がかからなくて助かった。泣き止んでほしい時には泣き止むし、言われなくても宿題はするし、一人で遊んでくれるし、手伝いはしてくれるし、成績はいいし、学校の先生からもどうやったら梨恵ちゃんみたいな子になるんですか? と言われたよ」と、いつも嬉しそうだった。
私はそういう子どもだった。全く子どもっぽくない子ども。
小さい頃に、誰か忘れてしまったが、大人から「大人の顔色を見る子だ、気持ち悪い」と言われたこともある。
そりゃそうだ。私は、母を困らせないため、泣かせないために一生懸命だったのだから。
母はいつもすごい剣幕で怒鳴り散らす父にビクビクしていて、父を怒らせないために一生懸命だった。
父は、私のちょっとしたこと(上の棚に置いてあったものを私が下に置いたとか、どうでもいいこと)でも怒り出すことがあるので、私は自分が怒られることより、自分のしたことで母が怒られることが嫌だった。
だから、母を悲しませないために、五感をフルに使って、怒られないように振舞った。
勉強も、手伝いも、運動も、何もかもが、父に怒られないためであり(父に愛されたかった、という思いもさらに奥深くにはあった)、母を喜ばせたいためだった。
しかし父は厳しい人だったので、私はどれだけ頑張っても、怒られることはあっても褒められなかった(誉められたこともあるのかもしれないが、記憶がない)。
母は義母と義父の介護や家事、田畑の手伝いで忙しく、私のことは上の空のように感じられた(これも実際はそうでもなかったのかもしれないが、あまり構ってもらえた記憶がない)。母の意識は、私ではなく父に向いていたと感じていた。
だから私は「何をやっても自分はダメなんだ、愛されない子なんだ」と、記憶のある小学生の頃には思うようになっていた。
家庭は、安心や安全、心地よさを感じられる場所ではなく、緊張と不安、恐怖の場所だった。休息できる場ではなく、頑張り続けなければいけない場だった。
(何度も言うが、今思えば、両親は彼らなりの考え方、やり方で私を守り、大切にしていたと思うし、一生懸命育ててくれたと思っている。大人になった今、彼らの苦労が分かることもある。しかし、小さい頃の私はこのように感じた、受け止めた、ということ)
これらの思いは変わることはなく、十分に愛された、大切にされたという感覚が全く蓄積されないまま、私は大きくなった。
ひとえに、母親を守りたい、と思い続けていた。知り合いもいない地方に嫁ぎ、肩身の狭い思いをしながら父に怒鳴られている母を。母に少しでいいから、笑ってもらいたい。そのためにできることなら何でもしようと。
そして暴力的な父のことを身の毛もよだつほど嫌っていたが、そんな父であっても、自分の父であることには変わりない。父に大切にされたかったし、頑張ってるな、よくやってるなと誉めてもらいたかった。
お父さん、お母さん、私を、見てください。
このままの私を。
でも、このままの私では愛されないみたい。
だから、頑張るから。
勉強も運動も家の手伝いも、何でもお父さんやお母さんの言うようにやるから。
だから、私を愛してください。
もっと頑張れば、こっちを見てもらえますか? 少しでいいから、愛してもらえますか?
ねえ、お父さん、お母さん。
そして泣き続けている小さい頃の私。
そんな私に、私は鞭を打った。
「もっとやれ、もっと頑張れ、そうしないと愛されないだろ」
そして私は、泣きながらなんとか頑張って勉強する。
そんな私に、私はさらに鞭を打つ。
「ほら、まだできる力が残ってたくせに、サボってたんだな。もっとやれ、もっとやれ、そしたら愛されるかも」
私はボロボロになりながら、頑張ってテストで98点を取った。
これで誉めてもらえるかも? と期待して父にテストを見せた。
父は言った。
「なんだ、この2点は。なんでこれができなかったんだ」
私は全身から力が抜けて、倒れそうになった。
そんな私に、また私は鞭を打った。
「ほら、もっとやれ、もっとやれ、できる力はあるんだろ? 頑張れ、頑張れ、100点を取ったら、取り続けられるように頑張れ、頑張れ、もっともっともっと頑張れ」
私は力絶え絶えになりながらも運動会のリレーで走り、5人中3番だった。
4番だった前に比べれば良くなったので、誉めてもらえるかも。
父は言った。
「近所の〇〇ちゃんは1番だったんだってな」
私は頑張った自分にさらに鞭を打ち続けるしかなかった。
それしか、愛されるための方法を知らなかったが、それでもほしいものは得られなかった。
頑張れば頑張るほど、私は自分のことが嫌いになった。「やればできる力が残ってるくせに、やらないダメなやつ。やってもできない、ダメなやつ」と否定し、追い込んだ。
それでも、頑張るしかなかった。
疲れても疲れても、どれほど疲れても頑張り続けた。
いつまでたっても、私は私のことが、大嫌いだった。
(2017年5月17日「ロハス・メディカルブログ」より転載)
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