医療問題ジャーナリストの熊田梨恵と申します。私は2015年、長男を出産後に「産後うつ」を経験し、初めてその苦しみと孤独を思い知りました。
仕事柄「産後うつ」という言葉は産婦人科医から聞いたことはありましたが、まさか自分がそうなるとは思いませんでしたし、妊娠中は誰からもそんな大変なことがあるとは聞かされませんでした。
私の場合は、産後うつや睡眠不足、片頭痛などから日常生活が送れなくなりました。そんな私がどうやって産後うつの苦しみと向き合い克服していったのか。このブログでは、産後うつ経験者として一つの体験談をお伝えしたいと思います。
前回までは、①初めての赤ちゃんと向き合うことの不安と孤独 ②産後うつの苦しみについて書きました。今回は、なぜ子どもの泣き声を必要以上に苦しいと感じてしまうのか、私の幼少期の体験から振り返って書いてみます。
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育児ブログを書く上で自分の産後鬱の経験は避けて通れないため書き始めたが、産後鬱について書くためにも避けて通れないことがある。
産後鬱がひどくなったのは、「自分と同じようなつらさを息子に味わわせたくない」という思いがとても強かった、ということだ。
このエントリーを書くのは非常に勇気が要ったが、これを書かなければ逆に薄っぺらく終わってしまうので、意味がないと思った。子どもの命と向き合うということは、自分自身と深く向き合わざるを得なくなるということがよく分かったし、そこから逃れることは、私はできなかった。
こういうことはあまり書くべきではない、という意見もあるかもしれない。しかし、私はこの部分なくしては自分だと言えないし、今後何をやる上でも、自分の土台になる部分なので、書いておくことは必要だと思った。
またそういう生真面目な部分も自分の一部だし、自分自身にしかできない表現であると思う。こういう経験をしている人もいる、というあくまで一つの体験談として書いていきたい。
私の父(82歳)はとても厳しい人だった。戦時中に育ち、大家族の長男として私の祖父に厳しく育てられた。
当時なら当たり前の厳しさだったのかもしれないが、今聞いたら間違いなく虐待として通報されていると思うエピソードも多かった。厳しく育てられた父は、自分にも周りにも厳しく、当然私にもそうだった。
私の母(82歳)は愛媛県から兵庫県に見合いで嫁いだ。文化も風土も全く違う地域の長男の嫁になった母は、とても苦労が多かったと聞かされて育った。
長男の嫁といえば子どもを産むことが仕事と思われた時代だと思う。母はなかなか子どもを授からなかったので、「石女」と言われ、舅や姑、小姑らからかなりの精神的プレッシャーを負っていたと聞いた。
そんな時に、母は妹から「4人目を授かったが経済的に苦しい」という話を聞き、そうして譲り受けられたのが私だった。私は熊田家の養女で、一人娘だ。つまり、伯母に育てられたということになる。
ちなみに自分が初めてこの話を聞いた時、不思議と昔から知っていたことのようで、わりと平然としていたため、恐る恐る打ち明けた母を拍子抜けさせた。話を聞いた当時は大学生で親元から離れていたし、私は両親にしっかり育ててもらったと思っていたので、生みの親が違ったとしてもそれはそれ、生みの母は生みの母、育ての母は育ての母、という感じだっただろうか。
全く知らない人が生みの親だったらまた違ったかもしれないが、親戚の叔母だったし、顔も知っていたのでそこまでのショックではなかったと記憶している。
そういう家庭だったので、母は「熊田家の跡取りとしてふさわしいように娘を育てなければ」というプレッシャーが強かっただろうと思う。母はいつも父に気を使っていて、常に顔色を窺っていた。そんな母に父は非常に高圧的で、時に暴力的だった。
父は縦のものが横になっているだけで突然激しく怒鳴り始めるような人で、何がきっかけで怒り出すか分からなかったので、毎晩子ども心にびくびくしていた。父が母を叱りつけている場面は大嫌いだった。
そんな中でも、母は私の育児をしながら家事をし、父の両親を病院と在宅で介護し、田畑の仕事を手伝い、地域との付き合いもしていたので、いつもとても忙しそうで大変そうで、寂しそうだった。
父は一家の大黒柱としてはしっかり家族を養ったし、大人となった今の私には父の当時の苦労が分かることもある。今は尊敬し、大切な父だと思っているが、子ども時代の私にとっては、とても恐ろしい人だった。私に対しても、父なりの愛情だったと今は思うが、とにかく厳しかった。誉められた記憶はほとんどなく、自分の存在する意味が分からなくなることもしょっちゅうだった。
自己肯定感や自尊心がほとんど育たなかった私は、大学に入り、社会に出てから色々と依存症などの適応障害を引き起こした。とにかく自分のことが嫌いで、自分を受け入れられなかったし、認められなかった。
それでも自分を愛してほしい、認められたいという欲求は本能の底から突き上がるようだった。あがき、もがいた。自殺未遂まがいのこともしたし、向精神薬が手放せなくなった時期もあり、最も長かったのは摂食障害だった。
本当に自分のことが嫌いで、諦めていたら、今頃自分は存在していたかどうか分からない。でも私は、自分を愛せないと思う心の底のどこかで、自分で自分を愛したいという、泥沼の中の光の欠片のようなものを感じていたのかもしれない。
依存症など私が経験した様々な症状は心身を傷付け、深く蝕み、このままもう自分はこの世を去るのかもしれないと思ったことも何度かあった。しかし、そのたびに「生きろ」という強い思いが自分の奥底から湧き上がった。自分を諦めることができなかった。生きることを諦めること、それだけは選ばなかった。
様々な人の助けを借りた。20代前半ぐらいまでは迷走を続けていたが、20代半ばぐらいにようやく自分の自尊心の問題だと気付き、自分で自分を認めるために、カウンセリングや自助グループ、心理学、心理療法、各種ヒーリングやセラピーなど様々なアプローチを試みた。
その中で多くの人と出会い、助けられた。今の私は今まで私が関わってきた方々のご縁によって生かされている。出会った方々には心から感謝していて、表しようがないほどだ。
そうした経験を経て、私は少しずつ、自分を認められるようになってきたし、諦めずに生き延びてきた自分を好きにもなってきた。
しかし出産して子どもを持ったことをきっかけに、まだ塞がり切っていない心の傷が出てきた。
子どもが自分と同等に、いやそれ以上に大切な存在だからかもしれない。
「私と同じようなつらい目に、子どもを遭わせたくない。自分は愛されない子どもだ、なんて思ってほしくない。子どもを傷付けたくない。十分に愛されたと感じて育ってもらいたい」と強く強く思うようになった。
子どもが泣いていたとして、家事などしていたらある程度は放っておかざるを得ないこともある。そういう時に「子どもが自分は放っておかれたというトラウマになるんじゃないか」と思ってしまい、必要以上に放っておけなくなるのだ。
母親は本能的に子どもの泣き声が苦手だと聞いていたし、子どもを危険から守らなければならないという動物的な感覚から、泣いている子どもを放っておけないということはあると思う。
私の場合はそこに自分の経験が重なってしまい、必要以上にそうなっていた。
子どもが泣くととにかく自分が責められているように感じたし、小さい頃の自分が泣いているように感じたのかもしれない。何が何でも泣き止ませなければ、抱っこしなければと、鬼気迫るようだった。
一方で、心理学なども勉強した私の頭は、私は自分の問題(自分は愛されていないと思うこと)を息子に投影してしまっている、ということも冷静に分析していた。
自分と子どもは違う人間なのだから、自分の経験を子どもにかぶせてはいけないと思っていた。今の自分は子どもと自分を同一視してしまっていると。
大人には大人の都合があるのだから、それをどう受け止めるかは、子ども次第。虐待など極端なことはいけないことだが、子どもの要望の全てを受け入れることは無理なこと。それは子どもが自分で処理していく過程であり、親にできるのはそのサポート。
親は自分の自己実現を他人である子どもに重ねてはならない、それは尊重ではなく支配だから。
ということは分かっているが、感情は理性の言うことなど全く聞かない。
私は産後の体調不良に加えて、必要以上に子どもを放っておけなくなってしまったことで、自分をさらに追い詰めた。
それを頭で分かっているのに対処できない自分はダメだ、とさらに自分を否定するという負のスパイラルにはまりこんでしまい、ますます心身が不調になった。
私の産後鬱や心身の不調の原因の大きな一つは、ここにあった。
(2017年5月16日「ロハス・メディカルブログ」より転載)
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