舛添氏は、何を日本に残したか?

「総理を狙える」とも言われた舛添氏を追い込んだのは、私たち国民でもある。どういう政治家が、私たちにとって必要なのかを再考し、私たち有権者の手で育てていかなければいけない。

耳を疑った。新党改革代表で元厚生労働相の舛添要一参院議員が、夏の参院選に出馬しないと報道された。新党改革の知名度が低く、三選が見通せないことなどが理由で、任期満了に伴い代表も退くという。事実上の、政界引退だ。

非常に、残念だ。彼は私が記者になってから見てきた厚労相の中で、抜群だった。厚生労働政策そのものに長けていたとは思わない。行政を動かすために、国会議員や官僚、メディア、業界、市民代表を実にうまくグリップし、政治的判断力、決断力、タイミングを読む力のずば抜けた「政治家」だった。

中央の舞台から退く人に、一般メディアの多くは冷たい。しかし、彼が厚労相としての能力をフル発揮していた時代に、間近でネットニュースの記者として取材していた私ぐらいは、自分の見聞きした事実を書いておきたい。

舛添氏は2001年に初当選。07年8月から09年9月まで厚労相を務めた。厚労省は医療、福祉、労働、年金など扱う分野は幅広く、職員は約3万2000人。舛添氏も「大臣が三人要る」と話していたほどの巨大官庁だ。舛添厚労相当時は、"消えた年金記録"、薬害C型肝炎、中国毒ギョーザ事件、救急受け入れ不能問題、派遣切り・年越し派遣村、新型インフルエンザなど、厚労行政ネタ目白押しの時期で、あまりの忙しさに救急車で運ばれた大手マスメディアのデスクがいたという話を聞いたぐらいだ。降って湧くように起こる問題に、舛添氏は決断を迫られ、頭を下げ、ほとんどサンドバッグ状態だった。

そのような中、"伏魔殿"と言われる厚労省の改革を進める手も止めなかった。私が日々追いかけていた医療行政から振り返る。

当時医療界が湧き上がっていたのは、国内各地で起こった救急受け入れ不能問題。舛添氏の任期中には、07年に奈良で複数の病院に受け入れを断られた妊婦が死産、08年に東京では妊婦が亡くなった事件があった。石原都知事と舛添氏による"モスラ対ゴジラ"のような応酬は、記憶に残る方も多いのではないか。

この問題を一言でいえば、医師不足。他にも要因はあるが、医師が国内で不足しているため、病院側は受け入れたくても受け入れられないという事態に陥っていた。しかし、国は「医師は余っている」と言い続け、歴代大臣はそれを信じてきた。

舛添氏は違った。国内で医師が不足しているデータを用い、御用学者でない専門家を入れた検討会を開いて、医師数を1.5倍に増やす政策を打ち出した。小泉純一郎政権以来続いた、毎年の2200億円の社会保障費削減政策も、打ち止めにした。

舛添氏の特徴といえば、外部ブレーンだ。東大の仲間や教え子、その関係者たち。なにせ東大出身者は各界の主要ポジションに散らばっている。中には党の違う国会議員もいた。彼らから、現場の声や厚労省には上がってこないデータがリアルタイムで寄せられる。舛添氏はそれを見て即決断、政策を実行に移した。その様子からは、政治家は政策の専門家になる必要はなく、信頼できる情報を多く得て、タイミングを見計らって重要な判断と決定をしていくことが大事なのだ、と唸らされた。多くの大臣は、就任初日から官僚のレクチャー漬けになる。細かい政策について詳しいわけではないから、担当官僚のレクを受けて国会答弁に立ったり、記者会見したりする。しかし、大臣に意のままに動いてもらうために、意図的に情報を操作したレクもある。舛添氏は外部ブレーンを使うことで、こうした官僚による誘導策も回避していた。

そして厚労省が政策決定を行うために開く審議会や検討会などの会議。これらは、省内で政策を決める際、「きちんと外部からの話を聞いて決めましたよ」という、いわば"アリバイ作り"。メンバーは、すでに官僚から根回しされ、彼らの意向をくんだ発言をする御用学者や業界関係者などが多い。そして狙い通りの報告書をまとめ、次年度予算確保につなげる。官僚の行動原理は、人事。うまく予算を取った官僚には、功を讃えて良い人事が回される。国民のための政策立案の場であるはずの会議が、実は官僚自身のためのものでもあるわけだ。

舛添氏は、この慣習も破った。08年1月に今後の医療政策を決める「安心と希望の医療確保ビジョン」委員会を設置し、山形大医学部長(当時)の嘉山孝正氏や、北里大学産科主任教授の海野信也氏など、それまで一般に名前は知られていなかったが、厚労省に対して物怖じしない発言をする実力派ばかりを起用した。毎回厚労省を真っ向から批判する意見が飛び交い、膨大な資料が提出され、お決まりの会議の取材に慣れていた私たちには楽しみな会議だった。

厚労省改革の本丸として舛添氏が行ったのは、無理と言われていた、人事。厚労官僚には、公務員試験を経た「事務官」と、医師や看護師など有資格者の「技官」がいる。戦後のマッカーサー占領時代、日本の医療や公衆衛生を担当したGHQ公衆衛生福祉局のトップが医師だったことから、厚労省で医療制度設計や医師資格などの付与と行政処分など医療行政全般を牛耳るトップの医政局長は、医師資格を持つ技官だ。医療機関や業界団体を補助金やモデル事業といった"飴と鞭"で意のままに牛耳る医政局長のポストは、他からおいそれと口出しできない聖域だった。

舛添氏が医政局長人事を動かすかもしれない話は、私たちの耳にも入っていた。そして09年7月、舛添氏は医政局長に、事務官の阿曽沼慎司氏(当時の社会・援護局長)を配置するという異例の人事を断行した。医政局長の外口崇氏は、事務系ポストの保険局長に就任し、医系技官トップとしてのメンツも保たれた。これだけの人事には、相当の根回しと官僚の協力が必要だったと思う。時の麻生内閣の退陣がささやかれ、舛添氏が任務を終える時期も近いと言われたその時期には、省内に彼に味方する人々が増えていたように感じられた。彼の実績はもちろん、官僚が何を喜び、何を嫌だと思うか、アナログな心情の部分をしっかり押さえた仕事を続けていたからだと思う。

もう一つ言及すべきは、他の政治家と違い、メディアの扱いに非常に長けていたことだ。08年秋、一介のネットニュースの記者に過ぎなかった私が、突然舛添氏の単独インタビューをさせてもらえることになり、驚いたことがあった。当時の医療業界は、ネットニュース全盛期。長時間会見をしても一部しか発言されない大手新聞・テレビと違い、私たち文字数制限のないネットニュースは、舛添氏の発言を全文公開して業界向けに発信していたのだ。それを知っていた舛添氏は、伝播力の大きい大手マスメディアだけの場合は、国民向けのメッセージを明確に簡潔に伝えた。私たちがいれば、医療業界に伝えたい内容を詳しく語った。彼の秘書から、私の携帯に直接、「今日の会見は来てほしい」と連絡が来ていたぐらいだ。先述の単独インタビューは、国が医師を強制的に地方に配置するという話が噂されていた頃で、舛添氏への賛否が吹き荒れる医療業界に、彼の考え方を伝えたいという趣旨だった。結果、私の書いたインタビュー全文は、ネット上のあちこちに貼り付けられ、彼の思いを知らしめる結果となった。まさに思惑通りだっただろう。

このほか、中国毒ギョーザ事件は、私は直接取材していないが、警察庁、農林水産省、外務省、国交省、内閣府など、厚労省の枠を大きく超えた対応の必要な案件として注目していた。官僚の扱いがうまく、他省庁に知り合いのいた舛添氏でなければ切り抜けられなかった問題だったと思う。中国まで出かけている様子は、ご苦労様だと思った...。

今振り返っても、舛添厚労相時代は厚労行政の忙しい時代だったが、問題を次々と乗り越えながら、厚労省改革を進めていく舛添大臣の手法は、痛快だった。民主党政権に移り、人事や医療行政などが、元の木阿弥に戻されてしまっている話も聞き、さすが厚労省はしぶといなあと思うとともに、国の改革は一筋縄ではいかないのだとも思う。

そんな政治家が表舞台から去る決断をしたのは非常に残念であるが、「総理を狙える」とも言われた舛添氏を追い込んだのは、私たち国民でもある。どういう政治家が、私たちにとって必要なのかを再考し、私たち有権者の手で育てていかなければいけない。秀でた政治家であれば、外部の話を聞く耳を持つということが、舛添氏を取材しながら知った。私たちから積極的に情報提供していくことで、彼らのブレーンとなり、国の政策立案にかかわることもできるのだから。

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