医療問題ジャーナリストの熊田梨恵と申します。私は2015年、長男を出産後に「産後うつ」を経験し、初めてその苦しみと孤独を思い知りました。
仕事柄「産後うつ」という言葉は産婦人科医から聞いたことはありましたが、まさか自分がそうなるとは思いませんでしたし、妊娠中は誰からもそんな大変なことがあるとは聞かされませんでした。
私の場合は、産後うつや睡眠不足、片頭痛などから日常生活が送れなくなりました。そんな私がどうやって産後うつの苦しみと向き合い克服していったのか。このブログでは、産後うつ経験者として一つの体験談をお伝えしたいと思います。
前回までは、①初めての赤ちゃんと向き合うことの不安と孤独 ②産後うつの苦しみ ③なぜ子どもの泣き声がつらいのか ④幼少期の心の傷について書きました。私が産後うつになる土台には、両親の愛を求める子どもの頃の自分がいたのです。
今回は、私の過去の心の傷が原因で引き起こされた自傷行為や買物依存、向精神薬依存などについて書いてみます。
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私の大学受験については、4年前にブログに書いていた。今思えば、これが初めての両親への反抗だったと思う。
両親は私の高校時代、「教師の仕事が一番恵まれているから、お前は教師をしろ」と、当然のように私の進路も就職も決めていて、私も自分はその道に進むものだと思って馬車馬のように毎日勉強していた。しかし、この件をきっかけに自分を覆っていた分厚いガラスが割られ、私は生まれて初めて「自分がどうしたいか」を考えた。
両親は私が自己主張したのを初めて聞いたと思うし、猛反対した。全くお互い譲らない期間が続いたが、最終的に受けれいてくれた。
自分の言うことを両親が受けれいてくれた、人間として見てもらえたと思った、初めての経験だった。
初めて、心から親に感謝したような気がする。
そして大学に入って初めての一人暮らし。親元から離れたとき、それまでのタガが外れた。
今まではすべての基準が両親だった。
母を悲しませないこと、喜ばせること。父を怒らせないこと、満足させること。
これが私の生きる基準だった。
それが突然、ぽっかりと穴が開いたようになくなったのだ。
私は今この瞬間、どうしたらいいんだろう。お父さんもお母さんもいない。
何を選択してどう行動すればいいのか全く分からなかった。
しばらくして、「自分がやりたいことをすればいい」と分かったが、18年間自分が信じてきたものが覆されるという、天動説から地動説に変わったほどのショックだった。
しかし自分の最も肝心な部分は変わっていなかった。
私は自分のことを「自分は誰からも愛されない、認められない」「やればできる力が残ってるくせに、やらないダメなやつ。やってもできない、ダメなやつ」と思い続けていた。
そして自分にとってこの世界は、「私なんて愛してくれない」もの、「頑張れと責め立てる」もの、「頑張っても認めてもらえない、誉めてもらえない」ものだと刷り込まれていた。
自分と世界を受け止めるこのような枠組みが、18年かけて自分の中に刷り込まれ、構築されてしまっていた。
(別の言い方をすれば、幼少期の強烈な出来事をきっかけに潜在意識がこのように思い込んだ、とも言える)
当然、世界は私にとってそのように映る。
世界は、私を傷付ける。
それから、私の様々な社会不適応が始まった。
大学時代の私は様々な依存症を繰り返した。
私の場合は、買い物、向精神薬、恋愛、自傷行為などに依存した。
依存症は、何かに依存することで、その時はつらい現実を忘れて没頭できるし、依存対象に自分を投げ出してしまえるので、つかの間の安心や安堵を得られる。
しかしその後、現実に引き戻された時に、やはり何も変わっていないのだと地獄に落ちたような気分になる。そして現実から逃げたくて、さらに依存するというスパイラルにはまる。
私の場合なら、お店(たいていブランドの洋服屋)に行って何かを買っているときはとても安心した。
店員さんと話し、お金を払っているときは、自分が認めてもらえているような気がして、自分を肯定できた。
品物が欲しいわけではなく、買い物というプロセスを経て自分が認められる、それが欲しかった。
だから、狭いワンルームマンションの片隅に、買ったものが開封されないままのショッピングバッグが積み上がっていたりした。
それを見ると使ってしまったお金に罪悪感を覚え、自己嫌悪に陥った。
でも学生なので、そんなに買い物はできない。
いつ頃からか、私は不眠になった。安心して夜に眠れなくなった。
その時に、近所の精神科クリニックに行って、安定剤と睡眠導入剤をもらった。
初めて飲んだ時、ふわふわと自分が浮いたような感覚になり、何も考えなくて良くなった。すごく楽になり、現実の自分を忘れられた。
私は何軒かのクリニックを同時に受診して、その時によって訴えを変えて、たくさんの種類の薬をもらった(今思うと、本当にとんでもないことをしました)
たくさんの薬を前に、今はこれを飲もうとか、ちょっと多めに飲んでみたらもっと楽になるかなとか、そんなことを考えていた。
今思えばとんでもない悪質な患者だが、当時の自分は、自分を傷付ける自分自身と現実から、逃げ出したくて仕方がなかった。
少しでいいから、つらい現実から目を背けていたかった。
ふっと我に返り、現実に引き戻されると、激しい自己嫌悪と後悔と罪悪感でいっぱいになり、さらに自分が嫌いになり、いつも胸が張り裂けそうに死にたくなった。こんな自分なんか生きている価値はないと、なのにのうのうと生きて、ご飯を食べて、みっともない。そんなに死にたければ死ねばいいのに、死ぬこともできない勇気のないやつ、と自分を苛み続けた。
そこから逃れるために、薬を飲み、リストカットし、自分で自分を殴ったり、壁に頭を叩きつけたりした。
その時も現実を忘れられた。嫌いな自分を傷付けている、ということで多少罪悪感が軽くなったような気がしたり、満足したりした。でも本当の満足ではもちろんない。
自傷行為の痛みはむしろ、生きている自分を確認するための行為、という側面もあった気がする。
あまりに苦しくて「死にたい」が止まらなくなり、すがるような思いで「いのちの電話」に電話したことがあった。すると電話口の相談員から「あなたがそんなことを言ったら、あなたを大切に育ててきた親はなんて思うと思う? 親不孝よ」と言われた。とどめを刺されたようで、余計に死にたくなったことを覚えている。
(いのちの電話を批判しているわけでありません。どんなところにも色々な考え方の方がおられるし、この方も私を説得するために必死だったのかもしれません)
この時、言葉は諸刃だと思った。自分が良かれと思ってかけた言葉でも、相手にとっては突き刺さる刃になることもある。これ以来、私は相手が悲しんでいたり落ち込んでいたりすると、その度合いが強いと思えば思うほど、これ以上に相手を傷付けたくなくて、かける言葉が見つからなくなったりする。ただ傍で聞く、それだけで十分かもしれないと思うようになった。
(2017年5月18日「ロハス・メディカルブログ」より転載)
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