寬仁親王殿下薨去から3年「父からの最高の宝物──三笠宮家との絆」

父の死という悲しいきっかけであったが、三笠宮家と深く絆を結んだ今だからこそ、痛切に感じることがある。それは、いかに長い間祖父母や叔母たちが私たち寬仁親王家のことを気にされ、心配してくださっていたかということだ。
Turkish President Abdullah Gul, right, and Japanese Prince Tomohito of Mikasa pose for cameras before a meeting at the Ciragan Palace in Istanbul, Turkey, Monday, May 3, 2010. The Prince is in Turkey to attend the opening ceremony for the
Turkish President Abdullah Gul, right, and Japanese Prince Tomohito of Mikasa pose for cameras before a meeting at the Ciragan Palace in Istanbul, Turkey, Monday, May 3, 2010. The Prince is in Turkey to attend the opening ceremony for the
ASSOCIATED PRESS

この6月6日で父の死から3年を迎える。私にとって父の死は、覚悟していたようで、まったくできていないものだった。正直言えば、未だ失ったもののあまりの大きさに戸惑いを覚えているほどだ。でも、父は最後に私たち姉妹に最高の宝物をくださった。それが今の私たちを支え、力を与えてくれている。その宝物、三笠宮家との絆を、父亡き今、大切に育んでいくことが残された私たちの定めと思っている。 

父を亡くし、母は病気療養中でご不在という状況で取り残された私たちに、手を差し伸べてくださったのは、三笠宮家の方々だった。ちょうど3年前の今頃のこと。父を失った悲しみに浸ることもできないほど毎日さまざまな儀式があり、右も左もわからない状態で、ひっきりなしに来られる御弔問のお客様に対応をしていた寬仁親王邸では、当然のことながら些細な失敗が繰り返されていた。それをどうするかの判断に追われ、本当に訳がわからなくなってしまった私は、恥ずかしながら一切の思考がストップしてしまい、廊下で立ち尽くしてしまっていた。そんな私に「しっかり!」と声をかけ、お客樣方へのお茶の準備の指示をしてくださったのが、父の姉である近衞の伯母だった。また、父の妹である千の叔母も、自ら伯母と共にお茶出しをしてくださった。そのおかげで寬仁親王邸は無事その日の行事を終えることができた。その時ほど親族のあたたかさを感じたことはなかった。

三笠宮家の長男として生まれた父は、将来三笠宮家を継ぐことになることから、宮号を賜らず、寬仁親王家当主として独立した生計を立てていた。本来であれば長男として、三笠宮家を支える立場であったはずの寬仁親王家だが、雑誌などに報道されたように、長い間三笠宮家の中で孤立した存在であった。その大きな要因が長年にわたる父と母の確執であった。私も妹も特別なお祝い事などを除いては、御本邸を訪ねることもほとんどなく、どことなくぎくしゃくとした雰囲気もあって、三笠宮家の方々と深く親交を結ぶことができなかったように思う。

そんな家族の状況にも関わらず、父亡き後、葬儀のことだけでなく、私たち姉妹を様々な場面で面倒を見てくださったのが、祖父母や高円宮妃殿下を始めとする三笠宮家の方々であった。最近では皇室のしきたりなど、わからないことがあると、すぐに御本邸の祖父母を訪ねてご相談をさせていただいている。そんなとき、祖父母の口から語られる父や叔父、叔母たちの他愛もない思い出話は、かつての三笠宮家の姿をよみがえらせるものであり、私の知ることのできなかった父の姿を垣間見る本当に貴重な物語だ。

三笠宮家の方々以外にも、父の死に際して様々な方からお力添えをいただいた。天皇皇后両陛下から賜ったあたたかいお言葉は、どれだけ感謝を尽くしても尽くしきれないほどの大きな心の支えとなった。皇太子同妃両殿下、皇族殿下方から日々いただくお心遣いがどれほどありがたかったことだろう。また、斂葬の儀を始めとする一連の葬儀にあたっては、宮内庁職員、宮家職員、皇宮警察、警視庁の皆が真摯に、それぞれの役割を超えて「殿下のために」と準備をしてくれた。皆の気持ちに頭が下がる思いでいる。

日本の伝統を子どもたちに伝えたいと始められた心游舎のワークショップで子どもたちと一緒に活動をする彬子さま 撮影/永田忠彦

父の死という悲しいきっかけであったが、三笠宮家と深く絆を結んだ今だからこそ、痛切に感じることがある。それは、いかに長い間祖父母や叔母たちが私たち寬仁親王家のことを気にされ、心配してくださっていたかということだ。そのあたたかいお気持ちを最近まで知るすべがなく、今のような親交を持つことができなかった自分自身に歯痒ささえ覚えている。

母が病気のご療養ということで寬仁親王家を出られて以来、私は10年以上母ときちんと話をすることができていない。再三母に話し合いをしたい旨をお伝えしてきたが、その都度代理人を通じて拒否の旨が伝えられるだけであった。

体調が回復され、ご公務に復帰される母に望むことが二つだけある。一つは心配をおかけした三笠宮同妃両殿下にお目にかかり、公務復帰のご報告と無沙汰のお詫びをしていただきたい。そして私たち皇族を支えてくださっている国民の皆様に公務復帰のご報告をしていただきたい。それ以上のことをこれからも私が望むことはないだろう。

今、私は日本の伝統文化を子どもたちに伝えることを目的に設立した、心游舎という団体で活動をしている。父はよく、「皇族というものは、国民の中に自ら入って行って、彼らが望むことをするのが仕事だ」とおっしゃっていた。父にとってのそれは、社会福祉であり、スポーツ振興であり、青少年育成であったと思う。私には父ほどの力もないし、知識も乏しいので、父と全く同じことをすることはできない。ただ、父がこれらの活動に情熱を傾けられたように、私は日本の伝統文化を次の世代に伝えること、日本の伝統文化が生き続ける土壌を耕すことに自身をかけたいと思っている。そして、そのことが、本当の意味で「父の仕事を受け継ぐ」ことではないかと感じはじめている。亡くなられた今では確かめることはできないけれど、父はいつものように「にやり」と肯定の笑みを浮かべてくださるのではないかと思っている。

父が薨去され、寬仁親王家は三笠宮家に合流することとなった。ありがたいことに祖父母は私と妹に「私たちが責任者になったのだから何でも相談してちょうだい」と仰ってくださる。この言葉はあたたかい毛布のように、私たちをふんわりと包んでくれている。

心游舎のワークショップは神社や寺を舞台として行われる。石清水八幡宮の祭礼では自ら御花神饌をつくり奉納された 撮影/永田忠彦

父の死から三年ということで、さまざまな媒体から取材のお話をいただいた。こちらへの寄稿と同じように月刊誌からも原稿の依頼を受け、自分の今の状況を整理する意味もあって手記を寄せた。その手記につけたかったタイトルが「父からの最高の宝物」であった。残念ながら月刊誌の手記のタイトルは私が見ることもできず、編集部の方がつけられたようだが、私にとって三笠宮家との絆が、この3年間で得た何よりも大切な財産である。

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