『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン監督は2006年に『トゥモロー・ワールド』という映画を作っている。子供が産まれなくなった近未来を舞台にしたいわゆるディストピア映画だ。全編に絶望感が漂う中、(ネタバレ同然のことを書いてしまうが)最後の方で内戦で荒れ果てた市街地に赤ちゃんの泣き声が鳴り響く美しいシーンがある。
響き渡る泣き声が、人びとの荒んだ心を洗い流し、憎み合っていた者たちが赦しあう。状況によっては気持ちをいらだたせる赤ちゃんの泣き声が、ここでは天使の歌声のように人びとを希望に導く。
この年末年始もそうだったが、ソーシャルメディアを使うようになったこの数年間でも何度か、赤ちゃんの泣き声だのベビーカーだのレストランだの、子育てを巡る激しい議論が巻き起こった。ぼくはその度に『トゥモロー・ワールド』の先のシーンを思い出す。(ちなみにこの映画はhuluにラインナップされているので、契約者は飽きるほど観ることができる)
赤ちゃんの泣き声について議論をすることがそもそも理解できない。いいとか悪いとか、そういう対象ではないと思うからだ。赤ちゃんを飛行機に乗せるなとか、ベビーカーを通勤電車に乗せるなとか、何を言っているのだろうとぼくは思う。
子供が産まれてよくわかったのは、子育ての大変さだ。大変なんてもんじゃない。戦いだ。修羅場だ。赤ちゃんは良妻賢母的なママがだっこすれば泣きやみ、あとはパパがお風呂に入れればいい、などというきれい事ではない。
哺乳動物の中で生まれていきなり立ても歩けもしない何もできない状態なのは人間くらいらしい。本来はもっと成長してから出産すべきはずなのに、脳みそが詰まった頭がこれ以上大きくなると外に出られなくなるから未熟なまま産まれてくる、という説を聞いたことがある。進化の末に知恵を選んだ人類は、その代償として手のかかる赤ちゃんを背負っているのだ。
子供が産まれてもうひとつ感じたのは、核家族は間違ってるんじゃないか、ということだ。少なくとも、子育てには向いてない。
まず赤ちゃんは良妻賢母がいれば育つ、というものではない。子育てに問題が出ると母親が良妻賢母じゃないからだ、的な見方をすぐする人がいるがそうではない。子育ては母親ひとりでは本来できない。
核家族の子育てに、父親の参加ははまず必須だ。時々自分の子供を虐待する母親のニュースがあると、ああ父親がダメだったんだろうな、と思う。実際、そういう家庭は父親がいなかったり不埒だったりそもそも逃げていったあとだったりすることが多い。なのに虐待する母親なんて鬼で悪魔で人間として最低だ、という報道ばかりされる。父親はニュースに登場しないので批判さえされない。
だが日本の高度成長社会は父親を会社漬けにしてきた。家庭をかえりみないのがむしろ男の誇りだと誤解した。また、かえりみたくても会社の空気が父親たちを子育てから引き離した。それでも専業主婦が普通だった時代は良妻賢母を演じることがかろうじてできたのだろう。いやきっとどこの家庭も一触即発なのをなんとか乗り切ってきただけかもしれない。
父親だけでなく、子育ては血のつながったコミュニティ全体で引き受けるものだと思う。うちの子育ても、妻が三人姉妹でみんな東京で結婚していたから互いに助け合えた。たまに集まって食事するだけでも精神衛生にはよかったのだと思う。
つくづく思うのは、核家族にせよ、奥さんの実家が近いのがベストだということだ。いわゆるスープの冷めない距離に、母親の母親が住んでいる。いつでも遠慮なく頼れるのだ。もっといいのは、奥さんの実家に一緒に住むことだ。婿養子にならなくても、磯野家で生活するマスオさんのようなモデルが標準になればいい。フネやカツオやワカメも面倒を見てくれるので子育てはラクになり、楽しくなるはずだ。
さらに"地縁"も大事だ。ずいぶん前のNHKの番組で見たのだけど、どこかの小さな島では島中で子供たちを見守ってくれるので、子育てがしやすく子だくさんの家が多いとレポートしていた。あちこちでおばちゃんやじいちゃんが子供たちに声をかけてくれるので、親としても安心なのだ。近代的な都市部の方が子育てにはつらく、昔ながらの島の暮らしの方が子育てしやすい皮肉な状況がその番組では描かれていた。
子育てを母親だけに押し付けてはいけない。そして少子化の原因のほとんどがそこにあるとぼくは思う。良妻賢母の幻想を女性たちに無理強いしてきたから子供が減った。「ごめんなさい、それ無理です」と女性たちが思っているのだ。そしてその押し付けは間違っているのだ。
母親に押し付けずに、父親も参加するし、親兄弟もサポートするし、社会全体が支えてくれる。子育てはそんな風に、みんなで包み込んであげないと、できないのだ。
赤ちゃんを、飛行機に乗せるのはいかがなものか。周りに配慮して自分のクルマで移動すべきではないか。ベビーカーで満員電車に乗るべきではない。通勤時間に移動する時はタクシーに乗るのが正しいのでは。
そんなこと言ってるから、子供が増えないのだ。
ただでさえ赤ちゃんが泣くと大変だ。どうやってもこうやっても泣きやまなかったりする。気持ちがささくれ立ってくる。心が渇ききってしまう。なのに、飛行機に乗せるなとか、通勤時間は控えろ、とか言われる。もう子供なんかできなきゃよかったのに。絶望する母親たち・・・
そんな中で、赤ちゃんが増えるはずがないじゃないか。
核家族が標準になってしまったこの社会では、社会全体が地縁血縁となって子育てを見守ってあげなければならない。赤ちゃんがいたら、みんなでこぞって祝福する気持ちでもって、笑いかけるのだ。
飛行機の中で赤ちゃんが泣きやまない。じゃあみんなであやしてあげよう。子育ての先輩たちは、うちのはこうして泣きやんだことがある、と知恵を出してあげてもいい。満員電車にベビーカーを押して母親が乗ってきた。じゃあその周りの5人くらいは電車を降りて、みんなで空間を作ってあげればいい。遅刻したら堂々と「ベビーカーに譲ったので」と報告して、上司は「それはよいことをしたね」と褒めればいい。
そんな非効率なことできるか、と言いたい?でも赤ちゃんが増えないことは、人口が減っていくことは、どれだけその社会にとってネガティブな事態をもたらすだろう。
日本の人口は世界で何番目か知ってるだろうか。1位中国、2位インド、3位アメリカ。そのあとは工業化が遅れていた国々が並んで、10位が日本。ドイツが8千万人、イギリスやフランスは6千万人。日本のGDPがずっと2番目だったのは、工業化が進んだ国の中で人口が2番目だったからだ。人口が多いことは重要なのだ。多い方が経済的に有利だし、減ってしまうと経済的に不利になる。
ベビーカーに譲って遅刻することは、だから日本経済のためにはいいのだ。人道的だけでなく、日本の国力を高める行為なので褒められるべきなのだ。
赤ちゃんを祝福しながら子育てをみんなで支える空気をつくること。その上で、子育てを支援する様々な制度も整えるべきだ。乱暴に言うと、子育ては何でもかんでも無料にするとか。保育園が足りないとか、なかなか入れないとか、どういうことかと思う。二十年も前から少子化は問題だと言われてきたのに、いまだに保育園には簡単に入れないのだ。いったい何をやっていたのか、ぼくたちは。
都知事選の候補が出そろったらしい。べつに原発を議論してもこの際いいから、子育てについても考えてほしいものだ。小手先の、ちょろちょろと部分的に学費を無料にするとかじゃなく、そんな制度有りなの?と、子育てについてみんなが目覚めるようなことを考えたり、議論すればいいのにと思う。
最初に取り上げた『トゥモロー・ワールド』の原題は『Children of Men』という。"人類の子供たち"と訳すのかな。子供が産まれなくなった未来にたったひとり産まれた赤ちゃんのことだ。でもひとりひとりの赤ちゃんが、人類の子供たちなのだと言えるかもしれない。
ビジュアルを先に作って記事を書くシリーズ。週一本のつもりで続けているのだけど、今週は2本目だ。いい感じのビジュアルができたので、来週まで待てなかった。例によって、いま間借りしているデザイン事務所BeeStaffCompanyのボス・アートディレクター上田豪氏が作ったビジュアル。いつもにも増して手が込んでいるのは、彼も父親だからかもしれない
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コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
sakaiosamu62@gmail.com
(2014年1月23日「クリエイティブビジネス論〜焼け跡に光を灯そう〜」より転載)