12月に書いた「日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない」の時も5,000いいね!でずいぶん驚いたものだが、それをはるかに上回る。ハフィントンポストは去年の5月にスタートし、ぼくは7月からブログを転載してもらってきた。去年後半からはっきりアクセスが増え、いまや月間読者数が500万とか600万とかになっているそうだ。ハフポがメディアとして急成長する上昇気流にぼくの記事も乗れているのかもしれない。
ただ、12万いいね!はちょっと考えられない。ハフポの成長性だけでは説明がつかない。
Twitterで検索すると誰が反応しているのか、わかってきた。
RTしてくれているのは女性が中心だ。現役の赤ちゃん子育て真っ最中の方をはじめ、お母さんたちが賛同してくれてるようだ。時折、「よく言ってくれた」とか「励みになった」とか「癒されました」などのコメントがついている。中には「読んでいて涙が出た」というようなコメントもある。こっちまでうるうるしそうだ。あと「男の人が書いている!」というのもあった。
そうかあ、と思った。育児に追われるお母さんたちが、「男のあんたがよう言うてくれた!」といいね!をくれたのだろう。ほんとはみんな、言いたい。訴えたい。訴えたいけど、女性が自分たちで言ったら叩かれるだけかもしれない。でも、ホントにホントに大変なのに。そう感じている女性がいかに多いか、ということなのだと思う。そして、そういう状況を理解している男性も共感してくれている。
一方、反論的なTweetもあった。コメント欄にも反論はけっこう出ている。冷静なのから、辛辣なのまでタッチはいろいろ。多かったのが「満員電車にベビーカーで乗ってくるならそれなりの態度を示すべき、そしたら手助けもするだろう」という類いのもの。うーん、あんまり伝わらなかったんだなあ。そういうお互い様だろ、を超えた姿勢を主張したかったのだけど。
「満員電車にベビーカーで乗り込んできて周りも気にせずスマホいじってる母親がいる」というような指摘もあって、確かにそりゃいかんぜよとは思う。ただ、母親がこうだったらいいけどああだったらダメ、というのは、わかるけど、そこをええい!と乗り越えてあげられないかと思う。
ベビーカーで子供を連れ歩くことを、そんなに申し訳なさそうにしなければいけないの?と思うのだ。いつもいつもお母さんは、赤ちゃんや幼児が迷惑かけてすみません、と、謝りつづけなければ外出できないのだろうか。なぜ赤ちゃんを連れて出かけるのか、と言う人もいたけど、預ける人がいないと連れて行かざるをえないわけで。
満員電車に乗せることがいかに赤ちゃんにとって危険かを理路整然と語る人もいた。飛行機に乗せることが赤ちゃんの身体に良くないのだと知識をご教授してくれる人もいた。ご説ごもっともだし、そういうことを考えない、思慮不足なママもいるかもしれない。でも、好き好んで満員電車や飛行機に乗せたくはない、けれどどうしてもそうしなきゃいけない、困ったなあ、というケースが多いんじゃないだろうか。だって、満員電車だの飛行機だのに乗せて泣き出したらみんなに迷惑になっていたたまれなくなる、と容易に想像できるわけで。それでも、乗せなければならないことが数年間の子育ての間に数回くらい出てくるだろう。
そんな時、気を遣いつづけ、配慮しつづけ、泣き出したらごめんなさいごめんなさい、じゃなきゃダメなの?満員電車に乗せる時、赤ちゃんを抱えながらもう一方の手にはオムツとか入った大きな荷物もありつつ、ベビーカーをきちんと畳まないと乗るな、ということ?
いろんな反応があった中、海外赴任を経験した友人が言っていた。アメリカでは子育てしやすかった。あちこちで声をかけられた。乗り物でベビーカーを見るとすかさず数名が寄ってきて手伝ってくれた。同様の話を、英国で暮らした経験のある人、イタリアで子育てした人からも聞いた。総合すると、欧米ではとにかく手伝ってくれるようだ。その際に母親の態度を問う、なんてことではない。子育てに対する社会の姿勢が違う、ということのようだ。ぼくは欧米がいい!というつもりもなく書いたのだけど、結果的にあちらの姿勢は参考になるみたい。
お母さんたちが賛同してくれていいね!くれつつ、けっこう強く反論する人もいる。このギャップは何だろう。先のアメリカ赴任経験の友人は「向こうは子育てと接する機会が多い」と言う。ベビーシッターを学生がやるのはそのひとつ。日本にはそういう文化がない。それこそ核家族化で失われたままだ。補うシステムも文化もない。
経験の有無は大きい。かく言うぼくも、最初の子の時に強烈な体験をした。
ぼくは結婚と同時にフリーランスになり、最初の6年間は自宅で仕事をしていた。だから上の子が産まれた時は基本的に家にいた。もちろん仕事場で作業するので子育ては基本的に妻がするわけだが、かなり手伝えた。普通のお父さんより接する時間は多かっただろう。「子育てに積極的なパパ」という自負心めいたものがあった。
ある日、妻が買い物に出ると言うのでぼくが面倒を見るからと言った。妻が出てすぐ子供が泣きはじめた。それなりにあやし方もわかっていたつもりだった。だが泣きやまない。ミルクも何度もあげてきたので温めてほ乳瓶をくわえさせてもダメ。ありとあらゆるあやし方を試みるのだけど、何をしてもダメだし泣き声が大きくなるばかり。数十分間あの手この手を尽くしても泣きつづける赤ん坊。なんだか自分を完全に拒まれたような気持ちになっていった。そうなると気持ちがささくれ立ってきて、赤ん坊の泣き声が心に突き刺さるようになる。もう限界だ。もういやだ。もういい。こんな存在はいらない。いなくなってもいい。そういう気持ちになっていき、赤ん坊を壁にぶつけてしまいたくなった。・・・・・・実際にはそうしなかったし、そうこうしているうちに妻が帰宅した。妻が「ああ、よしよし」と抱きかかえたら、一瞬で泣きやんだ。ぼくがあれだけ手を尽くしても泣きやまなかったのに、妻が抱っこしただけで泣きやむなんて。
それにしても、愛してるはずの子供を壁に叩きつけたい衝動に駆られるとは・・・。それでも父親なのか・・・。
この時ぼくは、子育てパパの自負心を木っ端みじんに打ちのめされながら、何か大きなことを知ったのだと思う。赤ん坊は泣きやまない時には泣きやまないのだ。理屈ではない。理論的な話ではない。何かでスイッチが入ると、もう回路をつなぎなおせない。そんなことがよくあるのだ。
いまの話では、妻が抱っこしたら泣きやんだが、それはたまたまで、母親が接していても泣きやまないことはある。ぼくはその時くらいだったが、お母さんたちはきっと、赤ん坊を育てる数年間の中で何度も何度もこんなことがあるはずだ。その度に、壁に赤ん坊をぶつけたくなったりする。もちろんしないし、こらえるのだが、赤ん坊を育てることはそんなことにさいなまれながら、それでも愛しているはずの赤ん坊との愛憎の戦いなのだ。こんなに世話をしてあげているのにどうして泣きやんでくれないのか。私は母親として何か欠けているのか。そんな葛藤に多くのお母さんはたったひとりで苦しみながら、終わりの見えない子育てに向き合っている。
母親だから赤ん坊を泣きやませることができる、ということはない。赤ん坊が泣きやまず、途方に暮れることは母親だってしゅっちゅうある。そういうことだ。
12万いいね!は、それを重々知っているお母さんたちであり、それぞれなりの育児参加でぼくに近い経験をしたお父さんたち。あるいは奥さんから聞かされてよくわかったお父さんたち。そんな皆さんの共感の数だろう。
さっきのギャップは、ここにあるのだと思う。「赤ん坊が泣きやまないことは普通にある」。そのことを知っているか、知らないか。体験したか、してないか。誰かに教わったか、教わってないか。・・・体験してないと「母親なら赤ん坊を泣きやませろよ、それが母親の責任だろう」と考えてしまうのだろう。
このギャップは、埋めようがあるのだろうか。子育てに対する世の中の"空気"をもっと柔らかで温かくしていった方がいい、とぼくは思うのだが。
今年の初めに「明日を変えていくメッセージをつむぎたい」という記事を書いた。ビジュアルからつくるこの少し社会的なメッセージのシリーズを通じて、「明日を変える」ことがほんとうにできないかと考えている。この12万いいね!をもらったテーマは、本気で考えたいと思う。たくさんのいいね!をもらえたのだから、それは可能なんじゃないかな。
具体的に何をどうすればいいのかはまだよくわからない。少しずつ考えて、また書いていきたいと思う。
コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
sakaiosamu62@gmail.com
(2014年1月27日「クリエイティブビジネス論〜焼け跡に光を灯そう〜」より転載)