「安保の次は経済だ」とばかりに力む安倍首相が、「一億総活躍」というスローガンを打ち上げたと聞いて、矛盾をはらんだこなれない言語感覚を疑いました。 食感に例えれば、異物感があって飲み込むのを躊躇してしまう感じです。一時の気まぐれなら、やり過ごすこともできるでしょうが、どうやら本気です。10月7日には「内閣改造人事」が発表となり、「一億総活躍担当大臣」も誕生するというので、これからしばらくの間はこの言葉が嫌でも耳に入ってくることになります。これまでの動きをふりかえります。
自民党は24日、党本部で両院議員総会を開き、安倍晋三首相(党総裁)の無投票再選を正式に決めた。首相はその後の記者会見で、「アベノミクスは第2ステージへ移る。『1億総活躍社会』を目指す」と語り、強い経済など新たな「3本の矢」を提唱。(9月25日朝日新聞)
この記者会見で、安倍首相は自民党総裁として「新3本の矢」(『希望を生み出す強い経済』 『夢をつむぐ子育て支援』 『安心につながる社会保障』)を発表するわけですが、その前段で「一億総活躍プラン」の説明をしています。
目指すは「一億総活躍」社会であります。
少子高齢化に歯止めをかけ、50年後も、人口1億人を維持する。その国家としての意志を明確にしたいと思います。
同時に、何よりも大切なことは、一人ひとりの日本人、誰もが、家庭で、職場で、地域で、もっと活躍できる社会を創る。そうすれば、より豊かで、活力あふれる日本をつくることができるはずです。
いわば『ニッポン「一億総活躍」プラン』を作り、2020年に向けて、その実現に全力を尽くす決意です。(自民党HP/安倍総裁記者会見)
そして、安倍首相は「一億総活躍」を掲げて、内閣改造時に「担当大臣」を置いて、「国民会議」を新設すると発表しています。たんなるスローガンではなく、「本腰を入れて」という姿勢がうかがえます。私は、すぐにツイッターで感想を表明しました。
「女性活躍」という言葉の飲み込みの悪さは、客観的評価を誰がするのかが不明であることにもありました。「一億総活躍」と対象が広がると、ますますその感を強くします。
安倍首相は、どんなイメージを描いているのでしょうか。突破力のある担当大臣が「一億総活躍プラン」を力強く推進し、それに呼応して「国民会議」が「一億総活躍」を推奨すべく東京で会合を開くだけでなく、日本列島をあまねく組織化していく姿でしょうか。想像をふくらませてみると、次のようなイメージがわきあがります。
「国民会議」の広がりと共に、「一億総活躍大臣賞」が創設されて、表彰を受ける方はメディアが逐一クローズアップしていき、「一億総活躍プラン」が国民全体の共通目標となる...。
そもそも「活躍」とは何でしょうか。物事に秀でていたり、傑出した業績をあげたり、地道な努力を実らせたり、他者から見て評価できるという場合に使う言葉です。「総活躍」とは「全員が活躍する社会」という意味になり、裏を返せば「非活躍者ゼロの社会」となります。ありえない話です。
私たちの社会には、多忙に仕事をする人もいれば、静かにもの想う人もいます。動きの早い人もいれば、ゆっくりの人もいます。生後まもない赤ちゃんもいれば、人生の最期を迎えようとしている人もいます。健康な人もいれば、障がいのある人や、病気と向き合う人もいます。
「一億総活躍」という言葉が上滑りするのは、国民全体を無理矢理に大風呂敷に包みこもうとする粗雑さにあると思います。「多様性の相互承認」がテーマの時代に、戦争中の国威発揚のスローガンにも通じる「一億総活躍」の語感には、過去に回帰していくようなにおいも漂います。
誰が「活躍」と評価するのかについて、「まさか政府ではないだろうが」とツイートすると、「その、まさかじゃないですか」というリアクションが多く寄せられました。さらに、「一億総懺悔」にも近いんじゃないかという意見や、「本当は『一億総動員』と言いたいのかも」という指摘もありました。総動員となれば、「国家総動員法」(1938年・昭和13年)を想起します。国策遂行のために、政府の統制下に国民を総動員するというもので、多くの犠牲者を生んだ無謀な戦争への道を決定的にしました。国家と国民をつなぐ「一億」や「総」という言葉の組み合わせには、繰り返してはならない「負の記憶」があるのです。
今回の「一億総活躍」を戦時中と重ねあわせるなんて言いがかりだ、向かうところは経済だと反論があるかもしれません。
60年安保後に登場した池田内閣は「所得倍増計画」を打ち出しました。政府が国民に向けて発した長期経済政策という意味で、今回の「総活躍」と違って主体が明確です。(2015年9月26日)
55年前に政府が国民に対して打ち上げた「所得倍増計画」は、結果を引き受けるのが誰であるのかは自明でした。ところが、今回の「一億総活躍」は、国民一人ひとりの自己責任だと言い抜けることもできます。さらに、これからの「経済」が向かうべき姿は半世紀前とは決定的に変化しています。
「エコノミー」だけを至上価値として、欲望のはてに突き進んできた結果を前に、私たち人類はライフスタイルの転換を迫られています。大量生産・大量消費社会は、人類の生存基盤である地球環境を激しく蝕んでいます。気象異変の波は、極端な猛暑や厳寒、連続する台風と自然災害の連鎖によって、私たちの前途に立ちはだかっています。
ドイツのフォルクスワーゲン社が違法改ざんソフトを稼働させて、大気汚染防止のテスト時だけ排気ガスを調整していたことで指弾を受けていますが、同社が販売・製造までも危機的な事態に直面しているのはなぜでしょうか。「環境より利益が優先だ」「カネさえ儲かればOK」という前世紀の「エコノミック・アニマル」的な価値観は、すでに通用しないことを改めて胸に刻むべきです。
「ビジネス」も品位を欠き、ルールを欺くと「犯罪」になります。「ビジネス」の方向と内容も問うべきです。その事業が生み出す環境負荷や、次世代への影響も考えていくと、「頑張る」「活躍している」ことがマイナス評価を受ける場合もあるということを肝に命じるべきだと私は思います。
2011年の福島第一原発事故は、「暴走を始めると取り返しのつかない核事故」による国土の汚染と孫子の代まで続く深刻な影響を残しました。その反省が十分にないからこそ、安倍政権は「原発再稼働」と「原発輸出」に代表される原発政策を平然と進めているのだと思います。さらには、これまで長らく制限してきた「武器輸出」まで解禁の動きが加速しています。武器製造・販売とは、戦争と殺戮により利益を得る「死の商人」に他なりません。
声なき声に耳を傾けることは、実に重要だ。ほんのかすかにしか聞こえてこない弱者の叫び。はるか遠くで救いを求める人々のうめき。それらに対する研ぎ澄まされた聴力は、民主主義社会に奉仕する政治家たちが絶対に欠いてはいけない感性だ。(2015年9月19日・浜矩子「危機の深層・安保法案 声なき声が声をあげるとき」)
政治が国民に号令をかける時代ではありません。むしろ、声にならない声、小さなシグナルに敏感になれる「研ぎ澄まされた聴力」を持つ政治が、「総活躍」を標榜する政治の対極にあります。行動も発想も統一されず、歩調はバラバラで、それぞれの人々が我が道を拓くことのできる多様性を包摂する社会を築きたいと思います。
最後に、紹介したい言葉があります。高齢者介護施設でリハビリに取り組んできた「社会福祉法人 夢のみずうみ村」の村民憲章です。世田谷区でも施設運営をする「夢のみずうみ村」では、「みんなちがってみんないい」が合言葉です。
生きていることはすばらしい
一人一人みんながちがうからいい
人の心の温かさにつつまれる中でこそ、
人は真に生きることができる
違いを尊重し見守ってくれる、
そんな仲間がいることがすばらしい
みんなちがってみんないい