「ポートランドという智恵」を東京で実現するには

なぜ、ポートランドは「暮らしやすさ」を選択したのでしょうか。
The newest bridge across Portland's famous riverfront
The newest bridge across Portland's famous riverfront
ChrisBoswell via Getty Images

昨年(2015年)秋に、アメリカのオレゴン州ポートランド市を訪れました。わずか3日間で、あれもこれもと欲張った駆け足の旅でしたが、胸の中にストンと落ちるものがありました。そのことを『ポートランドという魅力、「暮らしやすさ」の都市戦略』(「太陽のまちから」2015年12月22日) にたくさんの写真を織り込んで報告したところ、予想を超えた多くの方々から反響を頂きました。

「暮らしやすさ」の都市戦略という言葉は、今回のポートランド報告で思い浮かんだ私の造語です。「暮らしやすさ」という日常語と、「都市戦略」なるあまり日常的でない行政用語を結びつけて、「考えるヒント」をもらったように思います。人が居住地をどこにするかを定める時に、「暮らしやすさ」の尺度は大きな選択肢になります。

「大量生産・大量消費」の時代には、産業効率の向上に「人間」が従属させられました。都市は郊外の住宅開発を拡大し、遠距離通勤が当たり前になります。かくいう私も、1960年代の小学生だった頃、小田急線の相模大野から千代田区麹町の小学校に電車で通っていましたから、「痛勤」ならぬ「痛学」は毎日の苦行でした。当時の混雑率は高くて、車内の人の圧力で電車のガラスが割れるのも何度か見ています。

ポートランドは1973年のオレゴン州土地利用法による「都市成長限界線」を決めて、郊外への無秩序な住宅開発の拡大を抑えました。なだらかな丘の上にある公園に立って街並みを見渡すと、市街地を取り囲むようにして森の緑が広がっています。市民は森の中の散歩やジョキングを楽しみ、新鮮な野菜や食品が週末の市内でのファーマーズマーケットで手に入り、人々で賑わいます。

ポートランドのファーマーズマーケット

1960年代のポートランドは、鉄鋼・造船等の重工業が衰退していく中で環境汚染が深刻になっていました。やがて、街の中心部につくられた倉庫や工場が使われなくなり、薄暗く治安の悪いさびれた危険なゾーンとなっていきます。それが、「都市成長限界線」を決めたことで、都市の価値を悪化させていた「中心市街地の再生」に総力をかけて取り組むことになります。「豊かな緑」に囲まれた「歩いて楽しい中心市街地」をめざしたことが「都市戦略」たるゆえんです。

なぜ、ポートランドは「暮らしやすさ」を選択したのでしょうか。今回の訪問時に私がお会いした都市戦略の専門家からは、1970年前後の「高速道路撤去運動」がターニングポイントとなったと聞きました。

ウィラメット川沿いでサイクリングする地元住民たち

1960年年代は、公民権運動、学生運動、ベトナム反戦運動、カウンターカルチャーの時代であった。他都市と同様にポートランドでも多くの運動が起こったが、特に1969年、ポートランドの中心を流れるウィラメット川沿いの高速道路を撤去させた住民運動が重要だった。

高速道路建設の全盛時代に、この運動は成功し4車線の自動車道は撤去され、川沿約1.5キロにわたり緑の公園がつくられた。その後全米に(そして日本にも)広がる「ウォーターフロント公園」の先駆けとなった。

(「ポートランド自治モデル」岡部一明)

都市の中心部を縦断する高速道路の撤去では、韓国ソウル市で李明博市長時代に、暗渠化されていた清渓川(チョンゲチョン)の上部にあった高速道路を撤去し河川を復元した大プロジェクト(2003年~2005年)が有名ですが、ポートランドでははるかに早い時期に大転換を経験しています。

「車優先社会」からの転換をはかるポートランドが目指したのは「徒歩20分の生活圏」をつくりあげることでした。PDC(ポートランド市都市開発局)は、荒廃した中心市街地であるダウンタウンの再生に向けて、20年間と期限を区切って再開発資金を前倒しで投資する手法で、途切れることなく街をつくりかえていきました。

「ドーナツの逆を行こう」と宣言し、自動車交通によって郊外へ郊外へとスプロールしていったまちや人々を中心市街地に呼び戻す政策を展開します。ライトレール(軽鉄道)や、ストリートカー(路面電車)、バスなどの公共交通網を整備・充実させていきます。

(2015年12月22日 太陽のまちから「ポートランドという魅力、『暮らしやすさ』の都市戦略」

「徒歩20分の生活圏」は、アメリカで「車社会」を疑う人の少なかった時代に、十分なインパクトを持った都市戦略でした。中心市街地に放置されていた古いビル、倉庫、工場は、次々とリノベーションされて新たな価値を発信しています。地元の豊富な食材を使ったおいしいレストランや、地ビールを醸造しているメーカー直営のビアホール等が並んでいる「歩いて楽しいまち」となっていくことで、にぎわいが生れてきました。

歴史的建造物のリノベーションは、どこでもあたりまえに見られます。また、古い街並みの魅力を残しながら、街が再生へと歩むように巧みな仕掛けを凝らしてあります。ビルの1階には、レストランやバー、商品を並べるショップを必ず入れるように決めています。わずか20年前、「歩くのも怖かったし、危険だった」と言われたダウンタウンの一角が、今では夜遅くまで人々でにぎわうようになりました。

2015年12月22日 太陽のまちから

「都市計画」と書くと、ひと握りの官僚やエリート集団が青写真を描いて、地元住民からどのような声があがろうとも耳をかすことなく、既存の「計画」を100%実施するというイメージが、私たちの感覚に残っています。日本では、明治維新以後の都市計画は「官僚主導」で進められてきました。そして残念ながら21世紀の現在も、その色彩が濃いのが事実です。

ポートランドで「高速道路撤去運動」が実現した源泉は市民運動だったわけですが、その後「住民参加のまちづくり」が定着していきます。重要な決定プロセスに地域住民が参加し、時間をかけて意見交換を重ねていくことが重視されています。今回の訪問では「住民参加」の現場まで訪ねることが出来なかったのですが、住民にとっての「暮らしやすさ」を実現する自治組織が地区に存在することの意味は大きいと聞きました。

世田谷区の人口は2016年1月1日現在で、88万3200人です。東京23区の特別区のひとつでありながら、7つの県の人口を上まわっていて、地理的にも行政的にも特別な環境に置かれています。それでも、ポートランドが「暮らしやすさ」の価値を前面に掲げて、「人間優先のまちづくり」をめざし、そしてそれを確実に進めてきたことに大きく触発される点がいくつもありました。

そこで今回、先のポートランド報告の反響が大きかったこともあり、ポートランド訪問報告を土台にして、私たちの住む東京のまちづくりを考えるシンポジウムを開催することになりました。

東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から、まもなく5年となります。人々が自然につながり、会話を交わすコミュニティがあってこそ、災害時に正確な情報を行き渡らせて危険回避を迅速にすることができます。「官僚主導」は平時の管理には強くても、非常時には機能しなかったことを忘れるわけにはいきません。原発事故が重大化している時、肝心の周辺住民を預かる市町村長には国や県からの情報はなく、「ひとり判断する」以外になかったと言います。

「官僚主導」の都市計画は、そろそろ「住民参加」と「市民主導」に変わるべき時です。東日本大震災からの復興プロセスも、当事者である住民・市民の声がより生かされなくてはなりません。さらに、東日本大震災を受けて、多くの人口がひしめく東京で、ポートランドに学ぶ「都市戦略」をつくりあげ、実現することが求められていると思います。

ポートランドに学び、1970年代の「高速道路撤去」の市民運動の意味をふりかえり、日本に色濃い「官僚主導」から「住民参加」へと大きく転換し、「暮らしやすさ」を優先した都市戦略の大きな方向をつくりあげる時期が来ていると感じています。

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