先日、朝日新聞のオピニオン面「耕論」が「高校生と政治活動」を特集し、「小学校から場数踏んで」というタイトルで私のインタビューも掲載されました。(2015年12月12日朝日新聞)
ここで語っているひとつひとつは、忙しい日常の中で普段は忘れていることも多いので、改めてこの記事の「行間」を埋めてみたいと思います。
18歳選挙権が実現し、政治や社会に主体的に参加する「シチズンシップ教育」も議論されています。しかし高校生になってから模擬投票をして公民教育というのでは遅すぎるのではないか、と思います。(「小学校から場数を踏んで」12月12日朝日新聞オピニオン面=以下同)
民主主義プロセスへの参加には、準備体操からトレーニング、そして試行錯誤も必要です。他者の意見に耳を傾け、自分の意見との違いを見つけ、その違いが統合や修復可能な違いなのか、そうでないのかを吟味し、議論を始めます。こうして対話や議論を進めていくうちに、当初は見えていなかった「第3の道」が姿を現すことがあります。
学校での自治は、「民主主義の培養装置」として重要です。いま「18歳選挙権」を前にした高校生たちが、互いに意見をぶつけあい、小さなことでも「みんなの意見」によって決定するプロセスをどれだけ体験しているのかが気になります。
小学生だった頃、ホームルームの時間を楽しみにしていました。小さな出来事も徹底的に話し合い、少数意見も尊重して、やがてクラスの合意を形成していくプロセスは、民主主義のトレーニングだったと思います。小学校から異なる意見をぶつけあいながら討論し、話し合いの結果は尊重する、という場数を踏むことの大切さを感じます。
1960年代後半の小学校高学年だった頃、ホームルームの時間に随分と活発に議論した記憶があります。校庭が狭くコンクリート舗装だった東京都心の学校で、活発に身体を動かす遊びが危ないから禁止すべきだという意見と、もっと自由に遊びたいという意見が対立し、クラスの意見がまとまらず、次の授業に食い込んだ「延長戦」を担任の先生に頼むのは私の役割でした。そして、導き出された結論はルールとして守ろうという感覚でした。休み時間の過ごし方等、子どもにとって身近なことについて、議論の末に「小さな決定」をした経験は、後からふりかえると大きなものでした。
1980年代、私は教育ジャーナリストとして日本テレビ系の深夜番組『11PM』の教育特集で、「管理教育」の現場をレポートしました。この番組は『羊たちの季節〜ニッポン教育異論〜』(日本テレビ)として1984年民間放送連盟賞のテレビ教養部門で最優秀賞を受賞しています。その取材を通して私が見た中学校現場のホームルームは、当時すでにホームルームという名称さえなく「反省の時間」そのものでした。
「A君が先生の見ていないところで掃除をサボっていました」「モップをよく絞らないで、ふざけて追いかけてきた人がいます」等の発言が続き、教師はじっと聞いています。この話し合いの結論は、「みんな真面目に表裏なく掃除をやろう」以外にありません。外見的には私の体験したホームルームのようにも見えますが、あらかじめ結論が決まっている「反省会」なら、それは話し合いによる議論・討論ではなく、似て非なるものです。
1970年、東京都千代田区立麴町中学2年のとき、学校の近くで開かれていた「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」の集会を興味半分で短時間のぞいたことがとがめられ、学校から最後通告を受けました。
「政治活動を続けるようなら地元の学校に戻ってもらう。ここで逸脱しても得にならないぞ」という説諭でした。電車で越境通学の身だったので、深刻に悩みました。
最初から市民運動のデモに参加するつもりはなく、それでも「ちらっと覗いてみたい」と思っていました。友人と学校帰りの制服姿で、反戦集会が開かれていた中学からほど近くの清水谷公園に足を踏み入れました。実はそこに、1年学年が上の中学生たちが何人か参加していて、たいへん驚きました。
私たちにとっては、「制服姿」であることは集会参加の意志がないことの表示でしたが、それが裏目に出てしまったようです。この日のことは、「大胆にも制服で集会参加」という情報として学校に伝わっていたのです。「今回だけは大目に見よう。今度このようなことがあれば許さない」と最後通告されて、うなだれました。
中3になり、政治集会やデモにも出かけるようになりました。「早すぎる選択」でしたが、旧文部省が決めた「高校生の政治活動禁止」に正面から背いたのです。政治や社会を論じる新聞を校内で発行し、生徒会では意見を発表しようとして制止されました。
結果として、政治活動に参加したことを内申書の特記事項に詳細に記述され、内申書の「公共心」「基本的な生活習慣」などは最低のC評価でした。入試の成績ではなく内申書で受験した都立と私立の高校で不合格となりました。
「早すぎる選択」にあたって内心の葛藤はありました。「たかが中学生で、社会や政治に何を言おうと影響なんてあるわけがない、真面目に受験勉強して偏差値上位の高校・大学と進学して、それからでも遅くはないだろう」と、中学3年の時に何時間もかけて教師に説諭されたこともよく覚えています。
私は苦悶しながら、準備されたレールの上を行く「これからの人生」を想定してみました。おそらく、分岐点はいつも存在しています。大学では就職が、就職したら出世できるかどうかが目の前に表れることでしょう。先送りすることは解決にならず、一方で中学生のうちにレールから降りて脱線することの怖さも感じました。この時ほど悩んだ時は、その後にもありません。
悩みに悩んだ後に、政治や社会への発言と行動を選択しました。その結果が、それからの進路の前に立ちはだかった、「内申書」によるバリケード封鎖だったのです。
72年、内申書裁判を提訴します。内申書に生徒の思想・信条に関わる事項を記載することが許されるのであれば、内申書制度そのものが憲法に違反していると訴え、東京地裁で勝訴しました。しかし、東京高裁で逆転敗訴となり、最高裁は上告を棄却。その背景にあったのが、高校生の政治活動禁止だったのです。
16歳で内申書制度を問う裁判の原告となり、最高裁の上告棄却まで16年間を費やしました。幸いにして弁護団も、支援体制の構築も、当時の市民運動の練熟した人の手でかたちづくられ、私の役割は年に何度かの法廷に出て、終了後に支援者を前にして近況報告するぐらいのものでした。ただ、裁判の場をふりかえれば、青年期の人生の座標軸であり、よき学校だったとも思えるのです。
2015年夏、国会内外に急速に広がった安保法制反対の声は中学生・高校生にまで波及しました。とりわけ、高校生だけで企画して実行したデモもニュースとなりました。そこには中学生の姿もあったと聞きます。日本では、約半世紀ぶりのことかもしれません。
教育ジャーナリストから政治家としての自分の歩みを考えてみると、「自分の意見をまとめる」「相手の意見を聞く」「徹底的に話し合う」「解決案を提案する」など、日々の仕事に、子どもから思春期の経験が生きています。
いま88万都市の区長として、中高生の声を区政に反映することを意識しています。自発的な活動・表現の場を広げるとともに、生きづらさを抱えている若者を受け止める支援にも力を入れています。
新聞の投書欄で、中学生や高校生の声を注目して読んでいます。社会や政治のあり方に憂いを持つ若者の意見は、大人の惰性や諦めを見抜く鋭さがあると思うからです。
雑踏の中でも「中学生、高校生の声」を聞き分ける感度を持ち続けているのかを自らに問いながら、その声をいかした社会や政治をつくっていきたいと思います。